【注意】このブログには弥生時代の人骨写真があります。気分が悪くなる人は見ないでくださいね。

 

 

 

こんにちは、スタルペスです。

 

今日は、念願の「金隈遺跡(かねのくまいせき)」にやってきました。

2年前に一度訪れたことがあるのですが、施設のリニューアルということで入館はできませんでした。

昨年4月に約2年間ぶりにリニューアルオープンしたので楽しみにしてやってきました。

 

 

 

※金隈遺跡の「甕棺展示館」

 

 

 

※福岡県夜須町の峯遺跡出土の前漢鏡(連弧文清白鏡)のレプリカがデザインされています。

 

 

 

さっそく「金隈遺跡甕棺展示館」に入館すると、ものすごい数の甕棺墓群のインパクトに圧倒されてしまいます。

 

 

※この展示館には約100基の甕棺墓が保存展示されています。

 

 

 

金隈遺跡は、紀元前2世紀(前期中頃)から2世紀(後期前半)にかけての約400年に亘って使用された弥生人の共同墓地の遺跡です。

 

 

 

※弥生時代中期(前2世紀)から後期(2世紀)の墓地です。

 

 

 

この「金隈遺跡」は、甕棺墓348基、土壙墓119基、石棺墓2基からなる遺跡です。

一般的には、土壙墓、甕棺墓、石棺墓の順に新しくなっています。

 

 

※甕棺の中には本物の弥生人が眠っています。

 

 

 

※甕棺の中では遺体は屈葬をされています。

 

 

 

土壙墓は、地面を四角に掘って遺体を埋葬し、上から板などをかぶせたものです。

甕棺墓は素焼きの甕や壺を棺にして土中に埋めたもので、最初は小児用の棺として日常の生活で使用していた壺(つぼ)や甕(かめ)を棺として使用していたものを成人用の棺としても使用するものとなり、のちに棺用として焼かれた甕を使うようになったとのことです。

 

 

※甕棺墓も時代とともに微妙に形を変えています。

 

 

 

弥生時代に入ると甕棺墓は北部九州の墓制の特徴を示すものとなります。

佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」や糸島市の「平原遺跡」、奴国の中心地「須玖岡本遺跡」に、前回ブログで紹介した「吉武高木遺跡」など北部九州遺跡で大量の甕棺墓群が発見されています。

 

 

※甕棺墓の変遷も展示されています。

 

 

 

※触れられる甕棺レプリカもあります。

(中には入れませんが)

 

 

 

特にここ金隈遺跡が重要なのは、弥生人の庶民の墓地だということです。副葬品もあまり出土しておらず何世代にわたって墓地として利用されていました。

甕棺墓からは多くの人骨が出土しており、人骨から弥生人の寿命や身長までも分かったことです。

 

下表1からは、弥生時代前期に小児用として甕棺墓が利用されてきたものが、中期以降は成人も甕棺墓で埋葬することが定着したことが分かります。

また、当時小児(未成人)の死亡率が想像を超えるほど高かったことも分かってきます。

今のように医療が発達した時代ではないため、大人になることは奇跡に近いことだったのかもしれません。

 

 

※表1:金隈遺跡の甕棺墓の分類

 

 

また、下表2では弥生時代の人たちは成人になっても60代を超えることはほとんどできないことです。60歳を超えた長寿の弥生人は女性だけです。現在と同じで女性は長生きなんですね。

 

私も60歳、弥生時代だったらとうの昔に死んでいます。

 

 

※表2:出土人骨の年齢と男女構成

 

 

 

 

この展示館の裏の公園内に古墳があります。

6世紀末に築造された円墳だそうです。単室の横穴式石室が見つかっているようです。

 

 

 ※古墳の名前はわかりません「金隈遺跡古墳(仮)」というところでしょうか?

 

 

 

※墳丘の周りは板木で崩れるのを防いでいるようです。