こんにちは、スタルぺスです。

 

前回に引き続き、福岡県大野城市の「善一田

古墳群(ぜんいちたこふんぐん)」の紹介で

す。

前回は7基の円墳と土壙墓を紹介させていた

だきましたが、今回はこの古墳公園でメイン

の古墳「18号墳」と「19号墳」を紹介さ

せていただきます。

 

 

※善一田古墳公園(富士山のような形の小山の上部が18号墳です)

 

 

 

この古墳群で最初に造られた、この古墳群の

リーダの墓、第18号墳です。

 

ひときわ高い位置に築かれた18号墳は、こ

の地域一帯を治めていた豪族の墳墓と考えら

れています。

鉄鉗(かなはし)などの出土物から鉄器生産

に携わった豪族ではないかと考えられていま

す。

鉄鉗とは熱した鉄の塊を挟むための工具です。

 

 

※福岡平野を一望できる場所に築かれている18号墳

 

 

 

ただ、不思議なのはこの古墳群からは新羅製

の土器が大量に見つかっていることです。ま

た26号墳出土の装飾太刀三累環頭柄頭から

新羅との交流が伺えることです。

 

 

※この三累環頭柄頭は新羅で流行っていたそうです。

 

 

 

この古墳群は6世紀後半から7世紀前半の古

墳群で、おおよそ3世代から4世代が継続し

て古墳が築いている古墳群だと思います。

 

 

※大きな横穴が口を開いています。

 

 

※複式の横穴室石室が覗けます。

 

 

 

6世紀後半は、百済・新羅・高句麗の3国鼎

立の時代、倭国は高句麗の百済侵攻に対して

軍をたびだひ朝鮮半島に派遣し百済を支援し

ていきます。

しかし九州では新羅との交流が昔から続いて

いたようです。6世紀前半に起こった「筑紫

君磐井の乱」でも、ヤマト王権が任那・伽耶

諸国救済のため百済と連合して新羅を討つこ

とに対して、筑紫君磐井が半島への兵の派遣

を拒絶したために起こった戦いと見る向きも

あります。

 

まさに、九州諸豪族は百済よりも新羅との交

流が密接だったことを伺わせます。

 

 

※18号墳の丘でハートマークを見つけました。

 

 

 

この古墳群の一族は、新羅系の渡来人だった

のかもしれません。鉄器生産の技術集団とし

て九州に渡来し、この土地でゆるぎない地位

を築き根を張っていったのかもしれません。

 

この古墳群で古墳築造がなくなり。土壙墓に

移行したころ、ヤマト王権は白村江の戦いで

唐・新羅の連合軍に大敗をし喫してしまいま

す。九州の諸豪族も白村江の戦いに参戦して

いたことは地理的な面からも容易に想像され

ますが、ここの一族は新羅と戦ったのでしょ

うか?

 

敗戦後の九州防備を担った、大野城、水城の

築城もこの一族がその一端を担ったのかも知

れません。

 

・・・・

 

妄想はここまでにして・・・

 

18号墳の丘の下に19号墳があります。

7世紀初め頃に築かれた円墳で直径11mあ

ります。

 

 

※19号墳

 

 

※19号墳の横穴式石室

 

 

※単室の横穴式石室のようです。

 

 

※19号墳の近くにある木棺墓跡