こんにちはスタルぺスです。

「新町支石墓群」から移動し築山古墳(昨年
9月のブログで紹介)の麓にきました。

ここに、「三雲・井原遺跡(みくも・いわら
いせき)」の説明が書かれている看板があり
ます。

魏志倭人伝の伊都国は、ここ糸島市と隣福岡
市西区の今宿あたりにまたがる地域になりま
す。

その中心地がここ糸島市三雲・井原地区にな
ります。

と言っても遺跡らしいものはあたりになく、
田畑が広がるのどかな風景があるだけです。

でもこのエリア全てが遺跡なのです。


※三雲・井原遺跡は地面の下に・・



三雲・井原遺跡は、南北1500m、東西7
50mの範囲に広がる遺跡です。集落域と墓
域を合わせて約60haもあるわが国を代表
する弥生時代の拠点集落です。


※緑が住居域、オレンジ色が墓域



吉野ヶ里遺跡が50haなので、それよりも
はるかに大きな集落跡と言えます。

まさに、魏志倭人伝の伊都国の「王都」がこ
こ「三雲・井原遺跡」なのです。

遺跡の発見は、江戸時代に「三雲南小路遺跡
」、「井原鑓溝遺跡((いわらやりみぞいせ
き)」の両王墓の発見に遡り、本格的な発掘
調査は1974から開始されました。調査の
結果、遺跡中央部に大集落があることがわか
りそれを取り囲むように甕棺墓や石棺墓など
の墓域が展開し、集落と墓域との間には、数
条の大溝によって区分ていたとのことです。

また域内からは中国製の辰砂(しんしゃ)や
中近東原産のファイアンス玉、朝鮮半島系の
楽浪土器などが出土しており、中国・朝鮮半
島と活発な交流を行った伊都国の姿が浮かび
上がってきます。



※古代エジプトのとんぼ玉?(中近東産だそうです)



それでは、この「三雲・井原遺跡」内にある
国内最大級の弥生王墓「三雲南小路遺跡(み
くもみなみしょうじいせき)」に向かうこと
にします。

つい通り過ぎてしまいそうな農道脇にその「
三雲南小路遺跡」はありました。

一見すると説明書きがポツンと立っているだ
けの空き地に見えます。


※ここが国内最大級の弥生王墓「三雲南小路遺跡」です



説明書きには、弥生時代中期末(約2000
年前)の伊都国王の墓で、墓の周囲に幅3~
4m、深さ0.5m~0.7mの溝が巡り、
東西32m、南北31mの方形区域を設けた
国内最大級の弥生王墓とのことです。

よくよく見ると、レンガで線を描いたような
筋がみえます。これが王墓の範囲なのでしょ
うか?方形周溝墓の外周?
カーブしてるいてなんの目印なのかよく理解
できませんでした。


※このカーブした線は何の意味?



1号甕棺と書かれた範囲は、明らかに草も生
えていないのでここが墓域だということはす
ぐ解ります。


※ここが王墓?



※1号甕棺があった所?



奥には「周溝」と書かれた文字があるので、
ここら辺りに周溝があったことが理解できる
程度です。

しかし、江戸時代に発見されたときは1.5
mほどの盛り土があったということですが、
現在は墳丘はなかったように平坦になってい
て全体像を掴みかねます。


※ここに周溝があった?



墳墓の中央には2基の大型甕棺があったそう
なので、1号甕棺の奥の少し小さめのエリア
が2号甕棺があった場所ではないかと推察で
きます。

青銅製武器、金銅四葉座飾金具(こんどうよ
んようざかざりかなぐ)、ガラス璧(へき)
、玉類などの装身具の他に、1号甕棺には3
5面以上、2号甕棺には22面以上の前漢鏡
が納められていたとのことです。


※今は全てがこの土の中に埋め戻されています



このように数十面の中国製の銅鏡をはじめと
する豪華副葬品をもち、一定の墓域をもって
いることから伊都国の王墓と考えられており
この後に続く「井原鍵溝遺跡」、「平原遺跡
」と伊都国の絢爛豪華な王墓が続いていくこ
とになります。

このように、王墓が魏志倭人伝では「伊都国
に世々王有り」という記述を裏付けるもので
す。