こんにちは、スタルペスです。

3度目の糸島市にきました。
糸島市は古代、「伊都国」として栄えた地、
我が国の草創期の息吹を感じることができ、
なぜか惹かれてしまいます。
前回、時間の都合でいけなかった遺跡を訪ね
ることとしました。
 
・・・・
 
といいつつも
まず最初に訪れたのは、ジャニーズの「嵐」
の解散宣言で再び脚光を浴びている糸島市の
「櫻井神社」です。
いつもついてきてくれる家内に申し訳ないな
ぁ~という罪悪感もあって、話題の「櫻井神
社」にまずは立ち寄ることにしました。
 

※「櫻井神社」の楼門


「櫻井神社」は、福岡藩二代目藩主黒田忠之
公が創建した「櫻井神社」と伊勢神宮の両宮
の分霊を鎮座させた「櫻井大神宮」からなり
るそうです。
今回は残念ながら・・・(本心:後を急ぐの
で・・・)「櫻井大神宮」には伺うことがで
きませんでした。


※「櫻井神社」拝殿


この櫻井神社の本殿・拝殿・楼門は創建当時
のままとのことで、人気目当てのチャライ神
社とは違い、歴史の深さを感じさせてくれる
神社でした。
 
でも参拝客は、予想通り嵐ファンが多く、親
子ずれや女の子のグループが多かったように
思います。
中には、高校生くらいの女の子が二人でタク
シー貸切で来ていたのには驚きでした。たぶ
ん二宮神社、潤(うるう)神社と巡る嵐三社
詣でをするためだと思います。
 

※びっしりのおみくじ(嵐ファンの情熱を感じます)


5人組の嵐をなぞって五角形した絵馬には、
みな一様に「5×20が当りますように!!
」との願いがかかれていましたが、太っちょ
オヤジの私にはなんのことかさっぱり解りま
せんでしたが、神様には通じるのかも知れま
せん。
 
最後に本殿の裏に「岩戸宮」と書かれた扁額
があります。

気になり、写真だけとっておきました。

帰宅後、調べてみたら、ここは古墳だったの
です「相古墳(あいこふん)」という古墳で
大きな横穴式石室が祀られているそうです。


※「櫻井神社」の本殿?「岩戸宮」


毎年7月の1日だけこの「岩戸宮」に参拝が
できるそうで石室の中に入れるとのことです
(残念!!)

この「相古墳」は単室構造で比較的大きな玄
室を備えているようです。一度見てみたいも
のです。

さて、今回の目的地「新町支石墓群」に伺い
ます。


 櫻井神社から新町に向かう「志摩サンセット
ロード」は海岸線の素晴らしい景色が続き、
気持ちよく走ることができるドライブコース
です。

 「志摩サンセットロード」を快調に進んでい
くと三叉路に行きあたります。

 右折すれば観光名所「芥屋の大門(けやのお
おと)」に行くところですが、今回はそ~っ
と左折して新町遺跡に向かいます。
 

この「新町支石墓群」は国指定史跡になって
おり、現在「新町遺跡展示館」として遺跡の
出土状況を保存し見学できる施設があります。


※「新町遺跡展示館」


 遺跡展示館に車を停め、家内は、愛犬の散歩
に出かけます。

 私は遺跡の見学です。

この「新町遺跡展示館」、りっぱな建物です
が無人です。入口で来訪者名簿に氏名を書き
一緒に置いているパンフレットを1枚頂きま
す。

 天窓が自動で空いたのか?最初から空いてい
たのか?気持ち良い風と陽ざしが展示室の中
にすっ-っと入ってきました。 

 弥生時代早期から前期前半の支石墓群で南北
80m、東西140mにわたり合計57基の
支石墓と甕棺墓が確認されているとのことで
す。



※新町遺跡展示館の内部


 支石墓とは数個の支石の上に長方形に近い天
井石を載せる碁盤形の墓で、その下に甕棺や
木棺などを埋葬されている墓のことです。


※支石墓(たぶん9号墓)


この碁盤形の支石墓は朝鮮半島南部に広く分
布し紀元前400年頃に北部九州に伝わって
きたとみられています。


※支石墓の構造(説明パネルより)


 特にここ糸島半島を中心に松浦半島など北部
九州でも比較的西側に分布しており、宗像市
や北九州市などの東側には分布がありません。
また朝鮮半島南部からの伝播の経路となる壱
岐・対馬にも支石墓の分布がみられないのも
不思議な感じです。

 支石墓は朝鮮半島から弥生人が稲作と一緒に
持ち込んだものと考えられています。しかし
ここ「新町支石墓群」から出土した人骨は低
顔・低身長という縄文人的な特徴を示してい
て、縄文的な抜歯が共通して確認されている
ことから縄文人だとみられています。

 「稲作伝来=弥生人」 という通説は覆って
きます。


※新町遺跡展示館の内部(反対側より)


 弥生人が日本へ伝来して稲作を伝えたのでは
なく、縄文人が朝鮮半島南部にまで活動範囲
を広げる中で稲作を学び伝えたのかも知れま
せん。

 縄文人も意外や意外・・侮れない存在です。

ここ新町遺跡の支石墓からも人骨が出土して
おり、乳幼児は甕棺に埋葬され、成人は木棺
に埋葬されていたと推定されています。



※第20号墓(甕棺墓です


 特筆するのが、24号墓です。
この24号墓の主は、左大腿骨に磨製石鏃(
せきぞく)が刺さったままの状態で発見され
ました。まさに戦争で亡くなった方のお墓で
す。


※第24号簿(左側手前の小さな穴の方です)


この磨製石鏃は、「柳葉形磨製石鏃」と呼ば
れるもので朝鮮系の石鏃だそうで、ここの縄
文人は朝鮮系の文化を色濃く残した人たちと
言えるのかもしれません。

 朝鮮半島に縄文人がいた?・・・

最後に、この24号墳についてもう一つ不思
議なことがあります。


※第11号墓です。


この24号墳から少年の歯の骨が出土してい
ます。ここの解説書きには、この武人が戦で
亡くなったことで部族の者たちが、敵の部族
の少年の首を切り取ってこの墓に収めたので
はないかと見ています。

この時代、日本にも首狩りの風習が残ってい
たのかもしれないということです。

おっそろしか~~