こんにちは、スタルペスです。

今回訪問した「新原・奴山古墳群」の被葬者
の宗像氏(族)は、"海の民"です。


※「新原・奴山古墳群」

玄界灘や響灘を庭のように行き来し、さらに
は沖ノ島を経由し対馬、朝鮮半島までの航海
を自在に行なってきた海人族です。

宗像氏と同じように海人族として活躍してい
たのが安曇氏(あづみし)です。

安曇氏は、現在の福岡市東部から新宮町あた
りを拠点とした海人族だったと考えられてい
ます。

志賀島で発見された金印「漢委奴国王印(か
んのわのなのこくおういん)」の持ち主は「
安曇氏」だったのではないかという説もあり
ます。



※国宝「漢委奴国王印」(金印)

なぜなら、志賀島は安曇氏にとっては本貫地
といえるところだったからです。

安曇氏はすでに1世紀には朝鮮半島や中国と
も交易をしており朝貢も欠かさず行っていた
のでしょう。

そんな時に漢の光武帝より例の"金印"を授か
ることとなるのです。


※志賀島遠景(HPより)

奴国の王として長く博多湾周辺で権勢を誇っ
ていた安曇氏ですが、ここ九州の地にもヤマ
ト王権の力が徐々に強まってきます。

とうとう九州の豪族たちが立ち上がりヤマト
王権に反旗を翻します。

「筑紫君磐井の乱」です。

安曇氏の一族も磐井に味方しヤマト王権と戦
いますが、528年11月、物部麁鹿火によ
って鎮圧されてしまいます。


※岩戸山歴史文化交流館の筑紫君磐井像

これにより、安曇一族は全国に飛散していく
ことになります。

"熱海"や渥美"、"滋賀"も安曇氏にいわれのあ
る地名と言われています。

のちに信濃国安曇野(長野県中部)が安曇一族
の本拠地となってきます。


※長野県安曇野市の「大王わさび農場水車小屋(HPより)

海の民が、海のないところに行ってしまいま
した。

一方、宗像氏は「磐井の乱」では磐井に組せ
ず、ヤマト王権側に付きました。

磐井の乱以降、宗像氏の勢力は拡大をしてい
きます。これまで氏族の祭祀だった沖ノ島の
祭祀もヤマト王権の祭祀となり国家規模とな
っていきます。


※宗像大社

以降、宗像氏は戦国時代に宗家が滅びるまで
一族は繁栄していくこととなります。


●今日のランチ

 今日は、福津市の「福津飯店」で「台湾塩ラーメン」とチャーハンをいただきました。




ボリューム満点なうえに絶品の美味しさです。

家内は、「麻婆豆腐定食」をいただきましたが、これも言うことなしの美味しさです。




ごちそうさまでした。