こんにちは、スタルペスです。

「百間石垣」からさらに山を南方面に登って
いくと「福岡県立四王寺県民の森」がありま
す。

ここで、この一体の史跡地図を頂き現在地を
確認。

この「特別史跡:大野城跡」は、広大なエリ
アに史跡が点在していてどこまでが史跡の範
囲か解らないところがあります。

その意味で地図は必需品です。

「四王寺県民の森」から少しのところに、「
焼米ヶ原」の文字がありパーキングがありま
す。10台程度が停められる駐車場ですが、
ほぼ満車状態です。


※焼米ヶ原(やきごめがはら)
→ここから黒く炭化した米が出てきたからだそうです。

かろうじて、車を停めて外に出てみると、こ
こがこの大野城史跡のメイン会場のようです。

リュックサックを背負った人たちが多く、こ
こは福岡市郊外のウォーキングコースとなっ
ているようです。

駐車場から当時の土塁が延びており、土塁の
上から景色を眺めている人たちがいます。


※大野城の土塁

ここはウォーキングコースの中でも絶好のビ
ューポイントとなっているようです。

私も土塁の上から南方向を望むと・・・そこ
には「大宰府」の街並みが一望できました。


※眼下に太宰府

「そうなんだ!!、この大野城は大宰府を守
るように造られているんだ。」と心の中で叫
びたいほどの納得感がありました。

あとでわかるのですが、この大野城を南の坂
を下ればすぐに大宰府政庁跡等があり、大野
城と大宰府は間近にあることが解ります。


※太宰府の九州国立博物館、手前が太宰府天満宮

『続日本紀』に、「大宰府をして大野、基肄
(きい)、鞠智(くくち)の、三城を繕治(
ぜんち)せしむ」と、記載されています。

この大野城と筑紫野市と佐賀県基山町の間に
ある基肄城と、熊本県菊池市の鞠智城がこの
大宰府を敵の侵攻から守る重要な城だったこ
とが窺えます。

この土塁から左に入ったところに「尾花礎石
群」があります。


※尾花地区の礎石跡

ここには、高床式の倉庫が十棟建っていたそ
うです。当時は、食糧庫や武器庫だったそう
ですが、唐・新羅の連合軍が責めてきたとき
の長期戦に備えていたのかもしれません。

この大野城も東国からも大勢の農民が「防人
(さきもり)」としてこの大野城にも大勢や
ってきたのでしょう。

(当然九州からはそれ以上に動員されたはず
です。)


※尾花地区の倉庫建物跡の解説文

防人は、3年交代制で武器も食料も自前だっ
たそうです。遠く筑紫(九州)から故郷を思
う気持ちはどのような「思い」だったのでし
ょうか?

望郷の思いに胸が張り裂けそうだったのでは
と推察します。


※尾花地区の西側にある建物礎石跡
 
万葉集の防人歌

『韓衣裾に取りつき泣く子らを
    置きてそ来ぬや母なしにして』

 [現代語訳]
すそにすがりつい泣く子どもを置いてきてし
まったなぁ。母親も(死んでしまって)いな
いのに。