こんにちは、スタルペスです。

西都原古墳群の代表的な古墳を巡ってきまし
た。最後は、男狭穂塚(おさほづか)古墳と
女狭穂塚(めさほづか)古墳です。

この2つの古墳は、宮内庁の陵墓参考地に指
定さているため中に入ることができません。


※女狭穂塚古墳の参拝所

まずは、男狭穂塚古墳ですが、全長約175
m、後円部の直径132m、後円部の高さが
約18mあり、日本最大の「帆立貝形古墳」
です。

墳丘は三段築成で、周囲には幅20mの2重
の周濠があります。5世紀前半に造られたと
推定されていますが、主体部は未調査とのこ
と。


※男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳

伝説では、この古墳の被葬者は瓊瓊杵尊(ニ
ニギノミコト)と伝承されています。

日本書紀ではニニギノミコトは、天照大御神
の命令によって、葦原中国を統治するため高
天原から地上に降りたという天孫降臨神話の
人です。

初代天皇の神武天皇は、ニニギノミコトの曾
孫にあたることとなります。


※宮内庁の陵墓参考地の案内板

そのことから、この男狭穂塚古墳は皇統につ
ながる古墳だということで宮内庁が管理して
いるということになるようです。

このニニギノミコトの妻が、木花之開耶(こ
のはなのさくや)姫であり、女狭穂塚古墳の
被葬者と言われています。


※女狭穂塚古墳の遠景

女狭穂塚古墳は、全長180m、後円部の直
径96m、後円部の高さ15m、九州最大の
前方後円墳です。

この女狭穂塚古墳は、ニニギノミコトの男狭
穂塚古墳に寄り添うように造られているため
このような伝説につながったのかも知れませ
ん。


※女狭穂塚陵墓参考地

では実際にはどうだったのでしょうか?

現在有力だと考えられているのが、被葬者
は「諸県君牛諸井(もろかたのきみうしも
ろい)」とする説だそうです。

一方の女狭穂塚古墳の被葬者はこの「諸県君
牛諸井」の"娘"で仁徳天皇の妃である「髪長
媛(かみながひめ)」ではないかと言われて
います。


※記紀の道(男狭穂塚・女狭穂塚)の説明文

その根拠として、男狭穂塚古墳と女狭穂塚古
墳は、隣接してほぼ同時に作られており密接
なな関係があることが推測できること。また、
当時女性は出身地に葬られる習慣があったこ
となどからそのように考えられていることの
ようです。