こんにちは、スタルペスです。

 先週は、少し遠出して家内と一緒に佐賀県
唐津市の菜畑遺跡に行ってきました。

この遺跡は、日本のコメ作りのルーツみたい
なところで、いつかは訪れたいと思っていた
ところです。

以前に、福岡市の板付遺跡に行った際に、こ
こが日本の水稲の発祥地とのことで訪れまし
たが、板付遺跡よりも更に古い遺跡がこの「
菜畑遺跡」であるとのことが解り、いつかは
訪れたいと思っていました。
 



 このブログを書くようになり、今までに増
して遺跡散策を頻繁にするようになって、私
の中ではマストの訪問地となり今回、訪れる
こととなりました。

 この遺跡は、昭和54年に発見され発掘調
査の結果、今から2930年前(縄文晩期の後
半)に日本で初めて水田耕作による稲作農業が
行われていたことを実証する遺跡だそうです。




 板付遺跡よりも古いという根拠が、土器だ
そうで、板付遺跡では夜臼式土器からイネの
花粉が出現したのに対して、菜畑遺跡はそれ
よりも古い「山の寺式土器」からイネの花粉
や炭化米が出土したことによるそうです。

 稲作の伝来は、朝鮮半島から伝播した説と
中国江南地方から直接伝播したとする説の他、
沖縄経由で伝播した説があるそうですが、こ
の菜畑遺跡はどのルートから伝わったものな
のでしょうか?




稲作と言っても、畑に直接種もみを撒く「陸
稲(りくとう)」と水田で栽培する「水稲(すい
とう)」とは全く違ったものだったと思います。

高度な栽培技術が必要な「水稲」は、誰かか
ら技術的に教えてもらわないと実現しない技
術だと思います。

私は、縄文後期に朝鮮半島から弥生人が稲作
とともに渡来してきて、縄文人との融合する
中で稲作が広まってきたのではと思います。 


縄文から弥生へのバトンタッチの瞬間がこの
菜畑遺跡にあるのではないかと思います。