2024年6月5日(水)

 

松前街道「寄り道・上の国・江差」(5)

 

「バス停松城~バス~原口漁港前~バス~バス停上の国

車窓から  

 

バス乗り換えにて、原口漁港  

 

 

廃校舎?

 

バス停大津

 

松前町→上の国町   

 

上ノ国は北海道で最も早い時期に和人が定住した地であるとされる。

1189年、源頼朝が奥州の藤原氏を攻めた際に、糠部や津軽の人々が上ノ国付近まで逃れたという。

 

鎌倉時代以降蝦夷地は安東氏の管轄とされたが、本格的に蝦夷地の支配に乗り出したのは15世紀初頭、

渡島半島各地に砦を築いて以降のことである。

この砦は「館」(たて)と呼ばれ、この時期築かれた12余りの館は「道南十二館」と総称されている。

このとき函館の周辺は「下之国」、上ノ国や江差の周辺は「上之国」と称された。これが町名の由来である。

このころの上ノ国は松前や箱館とともに蝦夷地を代表する港であり、

十二館の一つとして作られた花沢館は「上之国」地域の中心拠点として機能した。

 

1456年にはコシャマイン率いるアイヌ人の蜂起があり、和人の諸館が次々に陥落したが、

花沢館主・蠣崎季繁の客将であった武田信広が指揮する軍がコシャマインを討ち取り、これを平定した。

信広はこれを機に蠣崎家を継ぐこととなる。

信広は花沢館の近傍に勝山館、洲崎館を築き、上ノ国は蠣崎氏による蝦夷地支配の拠点となった。

 

1514年、二代の光広は松前に本拠を移したが、勝山館に城代を置いた。

その後も上ノ国は檜山地域の政治・経済・軍事の中心であったが、

江戸時代に入った1678年、江差に檜山番所が作られると拠点機能も江差へと移り、

上ノ国の役割は次第に小さくなっていった。

 

上国寺 

上国寺重要文化財の本堂は宝暦7年(1757年)から翌8年(1758年)頃の建立で北海道最古級の木造建築。

 

上ノ国八幡宮

上ノ國八幡宮本殿は、北海道内に現存する神社建築としては最古の建造物とみられ、

その建築年は元禄12年(1699年)と推定される。

 

旧笹浪家住宅は

 笹浪家は上ノ国で代々鰊(ニシン)漁などを営んできた旧家の一つ。

 旧笹浪家住宅は、19世紀前期に五代目久右衛門が建てたといわれるもので、

北海道に現存する民家建築としては最も古く、北海道の日本海沿岸に今も残るニシン番屋の原型とも言われている。

 

 

上国寺 のすぐ先、「勝山館客殿跡→」の案内で、散策路(山道)を上がる。(12:34 13:20)

 

 

1470年頃、日本海に面した夷王山一帯の中腹に、松前氏の祖である武田信広によって築かれた山城の跡地。

16世紀末頃まで、蝦夷地と和人地の境目を見張る機能と、本州からの交易船を監視する機能を持ち、

蝦夷地全体の軍事・政治・北方交易の拠点とされていた。

 

北海道南西部の天の川の河口に中世15世紀中頃から16世紀末に機能した洲崎館、花沢館、勝山館がある。

1457年のコシャマインの戦いでは、道南十二館のうち茂別館と花沢館を除き陥落してしまったが、

武田信広の功績により侵攻を抑えた。

のちに武田信広は上ノ国守護で花沢館館主蠣崎季繁の娘婿に迎えられ洲崎館を築城、

さらに1470年頃勝山館を築城したといわれる。

 

国道226号を行く。

「バス停上の国」(13:26)

 

史跡上之国館跡花沢館の案内石柱で、脇道を行く。

道南十二館 花沢館(上之国館)跡(13:40 13:50)

 

 

 

本道最古の記録である「新羅之記録」には、花沢館の館主 蛎崎季繁(かきざきすえしげ)が

武田信広と共に長禄元年のコシャマインの攻撃にも屈せず固く守ったと記されている。

15世紀頃本州系の人々が道南の進出への拠点として道南十二館を築く。花沢館には上ノ国の守護が置かれる。

1457年のコシャマインの戦いでは、蠣崎季繁と武田信広がこの花沢館を堅く守ったと言われている。

 

「天野川橋」(天野川)を渡る。(13:55) 

右に、上ノ国町役場」(14:06)

 

ロータリーで左折。

「上ノ国目名川」を渡る。

 

砂館神社周辺が、「上之国館(洲崎館)」(上ノ国町北村)

松前藩の歴史書『新羅之記録』には、長禄元年(1457)のコシャマインの戦いで功をあげた武田信広が

蠣崎季繁の養女である安藤政季の娘を妻とし、同年築いた館と記述されている。

洲崎館は、蠣崎氏が天の川北岸への勢力拡大の始まりとなる館跡として、非常に重要な拠点として16世紀初頭まで機能している。

  

 

「バス停北村~バス~江差」

 

「江差散策」(16:00~16:50)

 

函館市、松前町と並び、北海道で最も早く開けた地域の一つ。

江戸時代はニシンの漁場および北前船によるヒノキアスナロなどの交易港で、

「江差の五月は江戸にもない」といわれるほど栄えた。

松前藩の所領であるが、1868年(明治元年)戊辰戦争の際に、旧幕府脱走軍の占領を受けた。

その際、旧幕府海軍の主力艦である開陽丸が江差沖で座礁沈没した

 

国道228号に、「江差追分会館・追分の殿堂」(江差町中歌町)

追分節は、江戸時代から信州中仙道で唄われた馬子唄がルーツ。

一種のはやり唄として全国各地に広まり、越後に伝わったものは船歌として

船頭たちに唄われるようになって、今から200有余年ほど前に

北前船によって江差に運ばれてきたという。

 

隣が、「江差町役場」(江差町中歌町)

 

「旧中村家住宅」横の坂を上がって、江差町のメインストリート「いにしえ街道」に出る。

「旧中村家住宅」横の坂

 

「旧中村家住宅」(江差町中歌町) 

主屋・文庫蔵・下ノ蔵・ハネダシという4棟が傾斜に合わせて一列に立ち並んでいることが特徴。

 

 

 

右手、高台に、江差町旧檜山爾志郡役所。

明治20年(1887)に、檜山郡と爾志郡を管轄する郡役所として建てられた。

その後、江差警察署や江差町役場分庁舎などに使われ続け、現在では北海道内に唯一残る郡役所建物。

 

 

いにしえ街道(中歌姥神)を西に向かう。

 街並み  

 

右手に、「江差姥神町横山家」(江差町姥神町) 

横山家は初代から数えること200年が経過している。

初代は天明6年(1786年)現在地において漁業、商業、回船問屋を営んでいた。

現在の建物は今から約160年前に建てられた家屋。

 

左手に、「姥神大神宮」(江差町姥神町)

社伝では鎌倉時代の創建と伝える、北海道最古の神社とされる。渡島国の一宮と称されている。

 

 

「切石坂」を上って、県道215号に合流。

切石坂からのかもめ島方面の景色 

「松の湯」

「バス停新地町」(16:40)

近くのBHに宿泊。