2023年4月14日(金)

 

信州街道「下豊岡(高崎)~大戸(東吾妻町)」(1)つまみ食い街道の旅(GSV)

 

「信州街道」は中山道の北を通る脇往還。

江戸に送られる北信濃国三藩(飯山、須坂、松代)の廻米や大豆、蕎麦、小豆、酒など、信濃国に送られる塩、茶、干魚などの物資の他、草津温泉への湯治客、善光寺参りの旅人が往来した。江戸と北信濃を結ぶ最短ルートとして中山道をこえるほどの賑わいをみせたという。

 

信州街道は、「三ノ倉」までは烏川の両岸の道筋が利用された。

 

起点1.「三国街道と信州街道の追分」

 

県道25号(現渋川街道)を行く。

「大野理容室がある相生交差点」

ここが、「三国街道と信州街道との追分」。

左折の道が信州街道(草津街道)

少し入った所に、稲荷神社があり、「草津街道の案内」があった。

(直進は、三国街道)

 

 

起点1,「上豊岡の道しるべ」のあるY字路。(高崎市下豊岡)

ここが、「中山道と信州街道の追分」 

中山道は左折。

信州街道は、右折で、国道406号(烏川右岸)を行く。

 

 

 

JR信越本線を渡る。

「バス停上台」(高崎市上豊岡)

「バス停引間」(高崎市上豊岡)

「バス停下里見」(高崎市下里見)

「バス停中里見」(高崎市中里見)

「北陸新幹線」をくぐる。

「バス停神山下宿」(高崎市上里見町)

 

「十字路」(高崎市上里見町)で、

国道406号と分かれ、本線・信州街道は左折して、県道130号を行く。

 

左に「春日神社」

「バス停鎧橋」(高崎市上里見町)

「バス停保古里」(高崎市上里見町)

 

県道130号→県道48号

 

右に、「間野公民館」(高崎市上里見町)

「西間野(猿落し)の摩崖碑」(高崎市上里見町)

「本庄辻の地蔵尊」(高崎市上里見町) 

 

「バス停日陰本庄」(高崎市上里見町)

 

「橋場の地蔵尊」(高崎市上里見町) 

 

その先、左に「関東ふれあいの道の道標」妙義山道松井田?の追分 

「恵宝沢バス停7.4k→」の道標がある。

 

 

「烏川」を渡る。(県道48号・122号)

「三の倉落合交差点」で国道406号を横断。(高崎市倉渕町三の倉)

 

「道祖神のあるY字路」(草道を含めると十字路)(高崎市剣崎町?三ノ倉)

草道が、烏川左岸の一方の信州街道とみたが?  

右に、県道122号

本線・信州街道は、左折。

 

 

 左手に、「石上神社」 

 

国道406号に合流して、右折。

 

「権田栗毛の終焉の地」(高崎市倉渕町三の倉) 

武蔵国熊谷郷出身の鎌倉武士・熊谷直実の愛馬「権田栗毛の終焉の地」と伝えられている。1184年、一ノ谷の合戦の鵯越で勇名を馳せた直実は、傷ついた権田栗毛を介抱して故郷に放すが、その生家は既になく主人の元に帰る途中で最期を遂げ、村人が馬頭観音を建てて葬ったという。

 

 

「バス停烏山入口」で、国道406号を離れ、左折して旧道へ。

国道406号に合流。

 

「倉渕郵便局前交差点」

本線は、直進。

右に、妙義山山道(県道33号)で、榛名山神社へ。

左に、「江戸時代末期の幕臣・小栗忠順(ただまさ)の終焉の地 。

薩長に対して主戦論を唱え、役職を罷免される。知行地である権田村に隠遁したが、

新政府軍に捕縛され取調べもなく、翌日には処刑された。

 

 

右に、「道の駅 くらぶち小栗の里」

右に、「高崎市役所倉渕支所」

 

 右手に、「東禅寺」(高崎市倉渕町権田)

東禅寺には小栗の墓や遺品、数々の功績を伝える資料が展示されている。

 

「権田交差点」で、国道406号を離れ(烏川から)、右折して、

榛名山西麓を北上する。

 

「牧野酒造」(高崎市倉渕町権田)

 

高崎市権田→東吾妻町荻生

 

「忠治とまどいの松」(東吾妻町荻生

 

「バス停荻生」(東吾妻町荻生)

 

「忠治地蔵」(忠治刑死跡場)(東吾妻町大戸)

 

「加部家跡」1376

大戸宿の加部安左衛門は、農業、酒造業、鉱山業、金融業などの多角経営を行って上州一の富豪となり、

上州の分限者(財産家)として「一加部、二佐羽、三鈴木」と称された。

また、1783年の浅間山の大噴火に際しては窮民救済のために私財を投じ、

幕末には足尾銅山の再興や外国貿易にも尽力した。

忠治は処刑直前に加部安の酒を所望して「上州の酒を飲み、上州の土となる、ああいい気持ちだ」と

言ったという。

 

「T字路・大戸交差点」

右折の道は、県道58号で、「真田道」(国道145号)に合流する。

本線・信州街道は、左折して、国道406号を行く。

角地に「大戸関所跡」

交通の要衝に1631年に「大戸関所」が置かれた。

江戸時代末期の侠客・国定忠治は、1836年に大戸関所を避けて山越えをした罪で

1850年にこの地で処刑された。