2020年11月16日(月)
「西近江・能登・飛騨のつまみぐい街道、12間の旅」の第7日、
能登街道(2)「羽咋~七尾」の、つまみぐい街道歩き。
羽咋~七尾はパスして「七尾散策」、出発、午前8時55分。
駅裏にある。「能登生国比古神社」までが大変だ。
藤橋交差点から左折して、JR線を横断して、民家をぬって、ようやく到着。
「能登生国比古神社」(9:12) 164, 161
または、「氣多本宮」
社伝によれば、祭神・大己貴神が出雲国より所口の地に至り、
人々を苦しめていた、湖に棲む毒蛇を退治し、当地に垂迹した。
よって当社を本宮と称す。
次に、「能登国・国分寺跡」を目指す。
「氣多本宮」より南下して、国道159号に合流して右折。
「古府町交差点」から県道244号を行く。
「国分寺跡歴史公園」(10:05 10:35)
次に、「能登国総社神社」を目指す。
県道244号を横断し、東に向かい、「能登国総社」の石柱で右折。
「能登国総社神社」(10:58 11:15) 186 188 190
崇神天皇の御代の創立と伝えられ、大穴持命が能登国に臨幸巡国経営の際に神恩を仰ぎ、
その御座された石を神体と崇め、社殿を建立したのがその創始であると伝えられている。
円融天皇のとき、源順能登の国司として下向の節当神社を再建し、
能登国中の延喜式内43座の神を勧請、幣帛神田社領を奉幣寄進され能登国総社と称する.
次に「七尾城跡」を目指す。
登り口、幕末時代加賀藩の肝煎を務めた飯田家の旧宅着(12:07)
七尾城跡巡り(12:10 14:40)
十分なほどの道標・案内で、山道を登って、本丸跡に到着。(13:10 13:15)
慰霊碑などがある。 263
七尾城跡は、能登国の守護・畠山氏(1408-1577)が16世紀前半(戦国時代)に築いた城館跡で、
全国でも屈指の規模を有す。 石動山系に築かれた城域は南北約2.5km、東西約1.0km、
面積は約252.6haにおよび、一帯は「城山」と呼び親しまれている。
七尾の地名の由来となった七つの尾根筋を中心に多数の曲輪(屋敷地)を連ね、
山麓には城下の町並みが形成され京風の能登畠山文化が華やいだ。
天正5年(1577)の上杉謙信の攻撃によって落城、169年にわたる畠山氏の
国支配の幕が閉ざされました。 落城後の七尾城は、一時、上杉方が入り、
その後、天正9年(1581)に織田信長から能登一国を与えられた前田利家が入城。
天正10年(1582)から17年(1589)頃に、港に近い小丸山での新たな築城により、
七尾城は城としての機能を失った。
七尾城は能登畠山氏の居城で、能登の政治、文化の拠点として機能した。
各地の有力大名がその拠点を山城に移す16世紀前半頃には能登畠山氏も
遅れることなく、七尾城を築き支配体制を固めたと考えられる。
「能登畠山氏」
足利氏一門の有力武士で、越中の守護を務めていた畠山基国が室町時代の初めの明徳2年(1391)に
能登の守護に任命され、その後、河内、紀伊の守護も兼務しました。
応永5年(1398)には室町幕府の管領に起用され、斯波氏・細川氏と三管領の一つとしての地位を築いている。
能登畠山氏は、基国の次男・満慶が、治めていた四か国(河内・越中・紀伊・能登)のうち、
応永15年(1408)に能登国のみの守護となったことをはじまり。
当時、守護は在京し、領国では守護代の遊佐氏が府中の守護所(現在の市街地付近)で政務にあたっていた。
応仁・文明の乱(1467-1477)後の文明10年(1478)に、守護・畠山義統が能登に下向、在国し分国経営の基礎を固めた。
3代義統、7代義総のとき、領国支配は安定し、公家や歌人などの多くの文化人が、都から七尾に訪れました。
府中の義統邸や七尾城内の義総邸では、たびたび和歌や連歌の会が催されました。
下山(14:37)
午後15時10分、七尾駅、到着。
この日は、七尾駅近くのBHに宿泊。















