2020年10月11日(日)
「対馬・壱岐・五島・島原・天草そして豊後街道の19日間の旅」の第7日目。
この日は「壱岐島めぐり(1)芦別~郷ノ浦」。
対馬・厳原港からフェリーで壱岐・芦別港へ。・約1時間の乗船時間。616
ターミナル前に、「少弐資時公の像」
文永11年(1274年)の文永の役で、叔父・少弐景資に従って12歳で初陣を果たした。
弘安4年(1281年)の弘安の役では、祖父・資能や父・経資らと共に日本軍を率いて、
壱岐島を占領する東路軍と戦うが壱岐島前の海上で戦死する。享年19。
まず、芦辺港周辺の散策。(7:55 9:50)
芦辺漁港
竜神崎公園(小弐公園)
少弐資時:弘安の役で壱岐にて戦死し、壱岐神社の祭神とされた。
「弘安の役瀬戸浦古戦場」の案内板
弘安4年(1281年)、2度目の元寇で壱岐島は元の東路軍の拠点となった。
これを討つために鎮西奉行の少弐経資は御家人を率いて壱岐島の瀬戸浦に上陸して元軍と戦った。
この戦いで少弐経資は負傷、長男の資時は討死したが、元軍を平戸へと追いやることに成功した。
少弐公園の所に「弘安の役 瀬戸浦古戦場」がある。
公園の帰り、芦辺漁港町の路地を歩くと「電力王・松長安左衛門 産湯の井戸」と神社。
バスに乗って、「芦辺港」から、勝本港を経由して、「壱岐・風土記の丘」へ。
車窓から「勝本港」「
壱岐市勝本町にある漁港。
江戸時代には朝鮮通信使の寄港地となっており、歴史がある港である。
「壱岐風土記の丘」でバスを降りて、「壱岐・古墳巡り」をする。出発、午前10時30分。
壱岐島は南北約17km・東西約15kmの小さな島の中に古墳時代に築かれた280基以上ある古墳がある。
その数は長崎県内の6割を占めるほどだ。
「壱岐風土記の丘」古墳館で「壱岐の古墳について学ぶ」
弥生時代では「一岐国」の拠点として栄えた「原の辻」が集落として存続するものの、
船舶のの進化や航海技術の¥の向上により、海上交易ルートが変化され、
それまでの「交易に拠点」から「交易の中継点」へと役割が変わった。
新たな交易の窓口を求めて多くの人が壱岐島から九州本土に移動した結果「原の辻」は解体していった。
現段階では、壱岐の古墳は5世紀後半に築造された大塚山古墳が壱岐の古墳の始まりとされている。
(案内より)
「壱岐風土記の丘・古墳館」の隣にある「掛木古墳」は6世紀末〜7世紀前半に作られた古墳。
「←百合畑古墳群」の案内で、「23基の古墳が集まる百合畑古墳群」(10:55)
6〜7世紀に作られた4基の前方後円墳と19基の円墳が集まる「百合畑古墳群」。
「生地城跡と笹塚古墳」の分岐表示で、まず「生地城跡」へ。
「生地城跡」(11:09)
16世紀中期に松浦党の1員だった源一が築城した山城で、土塁で囲まれていた。
源一は朝鮮王朝からも信頼が厚く、正式な交易が認められた。
分岐に戻って、「笹塚古墳」(11;23)
直径約40mの墳丘が築かれた「笹塚古墳」は壱岐で3番目の大きさ。
県道174号を渡って、「長崎県最大の前方古墳・双六古墳」(11:54)
6世紀中旬に築かれた全長91mの長崎県崎大の前方後円墳である「双六古墳」。
戻って、右折して県道174号を行く。
「鬼の窟古墳」(12:15)
直径45m、高さ13.5mの壱岐で2番目の大きさの「鬼の窟古墳」。
その石室は全長16.5mの長さで長崎県最大です。
江戸時代から観光名所となり、多くの見物客がきたという記録もあります。
鬼が住んでいたという伝説も。
観光バスが止まって、窓から眺めて行ってしまった。
古墳巡りから、県道174号を歩いて、「←国分寺跡の案内」(12:39)
「壱岐国分寺跡」(12:42)
8世紀中葉-後半に壱岐氏(壱岐島の古代豪族)の氏寺として創建されている。
8世紀後半-末頃に島分寺に転用されたのち10世紀末-11世紀初頭頃に衰退し、
17世紀に現在地に再興がなされたとされる。
古代島分寺跡については1974年(昭和49年)に長崎県指定史跡に指定され、
1987年(昭和62年)以降は発掘調査が実施されている。
道沿いに「史跡・へそ石」(12:47 )
壱岐島の「へそ」つまりど真ん中に置いてある石。
「国片主神社」(12:48) 744
少彦名命(一寸法師)が祀られている神社。
「月読神社」(13:27)
古来はかなりの社格を持った神社だとされているが、長い間忘れ去られていて
現在氏子など地元住民や島外の崇敬者によって、社殿などの整備が行われている最中である。
天照大御神の弟神である月讀命が祀られている神社。
京都の松尾大社の境内にある月読神社は、壱岐の月讀神社から分霊されたと言われている。
「バス停国分寺」からバスに乗って「バス停柳川」(14;18)
島のほぼ中央に位置するこの神社は、神功皇后に所縁があり、壱岐の代表的な神社の一つ。
「バス停柳川」で下車して,
壱岐の中心よりやや南側に壱岐国一宮後継社「天手長男神社」(あめのたながおじんじゃ)がある。
宗像大社の『宗像大菩薩御縁起』によると、神功皇后の三韓征伐の時に、
宗像大社の神が「御手長」という旗竿に武内宿禰が持っていた紅白2本の旗をつけ、
これを上げ下げして敵を翻弄し、最後に沖ノ島に立てたという。
天手長男、天手長比売の名前はこの「御手長」に由来する。
天手長男神社と天手長比売神社はその後、元寇によって廃れ、所在も不明となっていた。
一宮は天手長男神社である。
しかし、郷ノ浦町にある現在「天手長男神社」とされている神社が、
本当に壱岐国一宮・式内社の天手長男神社であるかどうかの明証はない。
式内社・天手長男神社を現在地に比定したのは国学者の橘三喜である。
三喜は「たながお」という社名から郷ノ浦町田中触に天手長男神社があったと考え、
実際に田中触に荒れはてた祭祀場の跡を発見したので、これが式内社・天手長男神社であるとしたものである。
三喜の報告に基づき、平戸藩主の命によって社殿等が整備された。近年の研究では、壱岐市芦辺町の
興神社が本来の式内社・一宮の天手長男神社であったとする説が有力となっている。
1時間以上待って、バスに乗って壱岐の中心地「郷ノ浦本町」へ。
「郷ノ浦散策(17;00 17:30)
夫婦神の猿田彦命、天鈿女命が奉られている。
「郷ノ浦港」
郷ノ浦のBHに宿泊

























