2016年11月22(火)

 

「旧街道・19日間歩き旅」の第13日目は、
豊前街道「中山香~豊後豊岡」 (3)を歩く。

 

 東鹿鳴越を越える道は通称「東鹿鳴越道」「豊前道」と呼ばれ、
日出藩主も利用していたことから、地元では「殿様道」と呼ばれてきた。
 一方の西鹿鳴越を越える道は通称「西鹿鳴越道」「宇佐道」と呼ばれた。
昔、豊後から豊前へ通じる街道は、江戸時代以前から鹿鳴越峠を越えるのが通例だった。鹿鳴越峠は立石から中山香、東山香を経て、長野へ通じる東鹿鳴越道と
宇佐から安心院を通って山田へつながる西鹿鳴越道の2つがあり、
フランシスコ・ザビエルは山口から大友宗麟の待つ豊後府内へ向かう際、
この西鹿鳴越道を通り、日出の港に来航したポルトガル船に乗って府内へ向かった。

 

今回は、 東鹿鳴越道(殿様道) を歩く。

 

JR日豊本線「中山香駅」、出発、午前6時45分。

 

「駅前通り」を左折して、「花立橋」(6:47)
「県道42号号」を横断。(6:51)
朝焼けの山香の山並みが映える。
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「八旗橋」(八板川)(6:58)
 「八旗八幡宮」 (別名:雨乞い神社)(7:01)
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坂を上がって、「山香農業高校」(平成27年3月閉校し、日田総合高校に統合)
坂を下って、Y字路。(7:14) 左に行ってウロウロ。右に行く。

 

 「羽門の滝→の案内」 を見て、右折(7:31)。  
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「不動明王石像」(7:40)
イメージ 4  景色が開く。(7:49)

 

イメージ 5   いい眺めだ。(7:57)

 

「羽門の滝→の案内」と「→鹿鳴越の案内」(8:00)  
この案内を見て一安心。
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「羽門の滝→の案内」(8:08)

 

「白龍伝説の名瀑・ 羽門の滝 」(8:14 8:18)
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「羽門橋」(松尾川)(8:18)

 

一本道は続き、杉林を抜ける。(8:45)
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「牧場入口?」(8:54)
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「鹿鳴諏訪神社」(10:25) 1
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ようやく、 目標の「十字路」 に着いた。(9:21 9:25)

 

ゆるやかに山道を登れば「鹿鳴越」と考えていた。
直進の山道は直ぐに、藪で覆われ,道が不明。
これは無理だ。突っ込んでも戻って来れない?
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十字路、右の舗装道路を歩いて、 遠回り道 を行く。(9:25)

 

Y字路、左。(9:39)
「STOP表示」の縄が架けられているが、通過。(9:44)

 

 Y字路。 (9;51 10:24)
左から上がってくる道は、先ほど藪で行けなかった道だろう?。
直進の道は、下がってゆく?

 

戻ったり、違う山道に入ったり、ウロウロ状態が続く。
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結局、直進の道を行くと、
木に添えられた 「鹿鳴越・城址」 の案内が有った。(10:26)

 

その先、「道標」が立つ所が 「鹿鳴越」 か?(10:30)
「長野→」の道標に従って下る。
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一休み(10:49 11:00)
途中、字が読めない案内でも安心する。(11:18)

 

「登山口」に出る。(11:26)  
緩やかに上る鹿鳴越え、急坂を下る鹿鳴下り。
北と南ではだいぶ違う。
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「日出バイパス」をくぐり、 「日出藩成敗場跡地」 (11:50)
ここは、「日出藩家老加賀山半左衛門殉教の地」でもあった。
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坂を下ると、 「ザビエルの通った道 の案内」がある。(11:58)
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「辻間団地」を下って、バス道に出る。(12:12)
バス道を西に向かって歩く。
「阿弥陀堂」(12:17)
「豊岡小学校」(12:25)
「友安川」から、鹿鳴連山が遠望できる。

 

JR日豊本線「豊後豊岡駅」、到着、午後12時40分。

 

ここで本線歩きは終了。

 

「日出城址」を見物するために、「暘谷駅」に向かう。
 

 

「日出城址(ひじじょうし)」付近散策(13:40  15:00)

 

JR日豊本線「暘谷駅」は、新しい現代的な駅舎だった。
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 「日出城址(ひじ)」 
九州に残された豊臣家につながりを持った大名 「日出藩木下氏」 
日出藩主の居城として慶長7年(1602)に築城。城内本丸には天守閣をはじめ、
各所に櫓が築かれ、本城を中心に二の丸・三の丸・外郭と三重の構えを備えていた。
現在は、天守閣跡・城壁・お堀跡などの遺構を残し、城内は小学校になっている。
日出藩の藩祖は木下延俊(のぶとし)で、北政所(おね、ねね)の兄である木下家定の子
延俊は兄弟の三男で、「関ヶ原の寝返り」で有名な小早川秀秋は実弟にあたる。
初代藩主木下延俊は父家定とともに秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは、
義兄の細川忠興の強い説得により徳川方に付き、忠興の幕府への取り成しによって、
豊後国速見郡日出3万石が与えられ、日出の地に入封するとすぐに築城に取りかかり、
慶長7年(1602年)に日出城を築いた。なお、彼の父・家定も、延俊とは別に
備中国・足守2万5千石に封じられ足守藩を開いてる。
江戸時代を通して全国の大名は約260家を数えましたが、豊臣家につながりを
持った大名は、この足守藩木下家と日出藩木下の2家のみ。

 

「鬼門櫓・展示室」でガイドさんから案内された。

 

つぎに、「致道館(ちどうかん)
15代藩主・木下俊程の命により設立された藩校で、今なお当時の姿をとどめている
貴重な建物。現存するものでは県内唯一。
部屋に上がると、ガイドさんが、ふすまを開けると、別府湾が広がる。
坂を下って、「城下海岸」と呼ばれ、波静かな別府湾と高崎山を望む。

 

青い別府湾に、緑の松が白壁の天守閣に映える、昔の日出城が偲ばれる。

 

イメージ 19  海岸線に石垣が築かれる。
イメージ 20  天守跡に上がる。本丸跡には、小学校。
イメージ 21  「日出城の時鐘」 
イメージ 22 「瀧廉太郎の像」 
「荒城の月」で有名な瀧廉太郎を輩出した瀧家は、日出藩の家老職などを
代々努めた由緒ある家柄。彼自身は父親の転勤で、東京の生まれだが、
「日出町出身と称していた。

 

この日は、「暘谷駅」近くのBHに宿泊。