2015年5月17日(日)

「前半・山陽道(西国街道)、後半・奈良の11日間歩き旅」に出かけた。

この日(8日目)、後半・「奈良歩き旅:佐紀・佐保路・西の京」を歩いた。

近鉄奈良線で、京都から、奈良駅へ。
バスに乗って、「バス停停般若寺」下車。出発、午前7時30分。

般若寺は、まだ開いていなかったので、外観から見学。(7:35)

般若寺は東大寺大仏殿や正倉院の北方、「奈良坂」を登りきった地点に位置する。般若寺門前を南北に通る道は「京街道」と呼ばれ、大和(奈良県)と山城(京都府)を結ぶ、古代以来重要な道であった。
629年高句麗の僧慧灌がこの地に文殊菩薩像を安置したことを起源とする寺で、その後天平7年(735年)聖武天皇の時、堂塔が造営されたと伝わる。鎌倉期の建築様式をもつ楼門は国宝、楼門の奥正面にある十三重石塔は国の重要文化財に指定されている。
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お寺近くに、小さな「植村牧場」(7:39)

下って、「北山十八間戸」(7:49)
鎌倉時代に奈良につくられたハンセン病などの重病者を保護・救済した福祉施設。
東西約37メートルあり、内部は18室に区切られている。1室の広さは2畳ほど(1室のみ4畳ほど)で収容者に衣食住を提供した。その数はのべ1万8千人といわれる。  
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「東大寺」が見える。
「多聞山城」(たもんやまじょう)に向かう。

松永久秀によって、眉間寺山と呼ばれていた標高115メートル、比高30メートルの山に築城された。城には多聞天が祀られていたため多聞山城と呼ばれ
多聞城とも呼ばれる。
東に奈良への入り口である奈良坂を、更に南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、大和支配の拠点となった
永禄3年(1560年)に築城開始。永禄4年(1562年)には久秀が入城した。
天正元年(1573年)、久秀は15代将軍足利義昭と同盟し織田信長に反旗を翻したが、圧倒され信貴山城に立て篭り、ほどなく降伏。多聞山城には明智光秀、次いで柴田勝家が入った。翌2年(1574年)、信長が検分のため多聞山城に入城。信長が正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を切り取ったのはこの折である。天正4年(1576年)に信長は筒井順慶を大和の守護に任じ、多聞山城の破却を命じる。石材の多くは筒井城に用いられ、更に郡山城にも移されたという。天正5年(1577年)、久秀は再び反旗を翻したが信貴山城で自害した。

近世城郭における天守の先駆けともいえる天守の始まりを
安土城とするが、『甲子夜話』では多聞山城を挙げている。
壁は白壁、屋根は瓦葺で、石垣も用いられていたようだ。
塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりであるという。
このように先駆的な要素を併せ持った城で、中世の城郭様式から脱し、
その後の近世城郭に移行する過程の城郭発達史における重要な城で
あったと位置づけられている。

現在の城跡は奈良市立若草中学校になっている。
正門から入った所に「多聞山城城址の碑」。周辺には
多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。

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次に目指す「聖武天皇陵」は、多聞城の左隣だが、
一度下って、「方蓮橋」(佐保川)がその入口。

「聖武天皇陵:仁正皇太后陵」(8:12b 8:25)

佐保山南陵と佐保山東陵の参道入口がある。白い玉砂利を敷き詰めた清楚な参道を真っすぐ進めば、正面に聖武天皇の南陵がある。南陵の手前で右へ折れる道を進めば、光明皇后の東陵に行き着く。ここは、天平文化を代表するとも言える天皇夫婦が、死後も連れ添って眠る王陵の地である。聖武天皇がその創建に心血を注いだ東大寺にも近い。
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県道104号を進む。
「興福院」(8:47)
安土桃山時代に大和大納言豊臣秀長から寺領200石の寄進を受け、復興した。寛永13年(1636年)には徳川家光から再び寺領200石を寄進されている。現在残る本堂、客殿、大門はこの頃の建立である。徳川家綱代の(寛文5年(1665年))に現在地の法蓮町に移転した。上記の建物も移築されている第2世の尼僧は、元大和郡山城主豊臣秀長の未亡人である。3代徳川家光から14代徳川家茂までの将軍の位牌をまつっている。
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「長慶寺」(8:52)

「歴史の道」の案内が見える。

「狭岡神社」(9:06)
由緒記には、「本狭岡神社は霊亀2年(715)藤原不比等が国家鎮護・藤原氏繁栄のため、勅許により己の邸宅佐保殿の丘上に天神八座を奉祀して崇拝した。これが佐保丘天神・狭穂岡天神・狭加岡天神となって、今の狭岡神社になった。
 次いで、藤原不比等は河内の国枚岡より藤原氏の祖神である春日大明神を、大和国奈良の御蓋山へ移され、斉祀した。これが今の春日神社である。
 それ以来、国政の大事や氏神春日詣りには、藤原一門がこの佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎して、日の出を待って国政に掌り、春日社詣をした。」と古事に出ている。

「狭穂姫」にまつわる伝承があるようだ。(狭穂姫伝承の鏡池)
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「不退寺」(9:22)
仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱御所跡に在原業平が開基したと伝わる。
その由緒から「業平寺」とも呼ばれる。平城天皇の第一皇子阿保親王の菩提所である。

「関西本線」を細い、狭い鉄橋で渡る。(9:25)
巨大な古墳群が集中している佐紀路に入ってきた。
佐紀盾列(たてなみ)古墳群と呼ばれている地区を歩く。

「宇和奈辺古墳」(9:33)
全長260mの宇和奈辺古墳、古墳時代中期の前方後円墳。
陵墓参考地に指定されているが、被葬者は不明
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航空自衛隊の正門(9:41)

「小奈辺古墳」(9:42)
航空自衛隊の正門の西側が、全長210mの小奈辺古墳。被葬者は不明

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「磐之媛命陵](10:00)
仁徳天皇の皇后、磐之媛命の陵墓とされる。全長220mの前方後円墳。
日本書紀によれば、磐之媛命は仁徳天皇35年(347年)筒城宮(つづきのみや)で薨去し、2年後の仁徳天皇37年(349年)に奈良山に葬られた、とある。
ヒシアゲ古墳は明治時代に磐之媛命陵に比定されたのだが、
それまでは若草山の上にある鶯陵が磐之媛命陵とされていた。
奈良山がどの山をさすのかについてははっきりしたことはわからず、
従って確実にここが磐之媛命陵であるとはいえない。

磐之媛命の夫、仁徳天皇の陵は大仙陵古墳(大阪府堺市堺区大仙町)
に比定されている。 大仙陵古墳も確実に仁徳天皇陵であるとはいえないが、
「百舌鳥に葬った」という記述があるので、現在の堺市あたりに葬られたことは確かだろう。 (堺市に百舌鳥という地名がある。)
夫婦は百舌鳥と奈良山に引き離されて葬られたのである。

仁徳天皇30年(342年)、仁徳天皇は磐之媛命が熊野に出かけて留守の間に
八田皇女を宮中に迎えた。 磐之媛命はこれに激しく嫉妬して
山城の筒城宮に移り住み、仁徳天皇のもとに戻らなかった。
そして、仁徳天皇を許すことなく、仁徳天皇35年(347年)筒城宮で没した。
二人の陵が離れたところに作られたのはその嫉妬のためか。
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「小奈辺古墳」まで戻って

「海龍王寺」(10:18)
本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の
北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。
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「法華寺」(10:26)
奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。
本尊は十一面観音、開基は光明皇后である
光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。
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東大寺の西の門・転害門から西へのびる道:法華寺までを佐保路と呼び、
その先は佐紀路となって西へのびる。

「宇奈多理神社」(10:34)
持統天皇6年(692)の日本書紀の記事に登場する古社。
伊勢神宮や住吉大社と併記されるほど宇奈多理(菟名足)神社は
重要な神社だったようだ。 もとは法華寺の鎮守とされていた。
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「東院庭園」(10:42 11:00)
1967年、平城宮東張出し部の南東隅に大きな庭園の遺跡が発見された。
この場所は『続日本紀』にみえる「東院」にあたることから、
発見された庭園は「東院庭園」となづけられた。
それまで奈良時代の庭園については古い文献から
そのようすをうかがうのみだが、この発見を契機に
発掘調査を継続した結果、庭園部分とその周辺一帯の様相が
ほぼあきらかになった。東院庭園は東西80m×南北100mの
敷地の中央に複雑な形の汀線をもつ洲浜敷の池を設け、
その周囲にはいくつもの建物を配していたことが確認された。
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「平城京跡」(11:00 12:05)

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、
708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。740年(天平12年)、恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
810年(弘仁元年)9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。

天皇の住まいである内裏即ち内廷と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙の所謂外朝から成り、約120ヘクタールを占めていた。周囲は5メートル程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門を始め豪族の姓氏に因んだ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りした。東端には東院庭園がおかれ、宴等が催された。この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている
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「平城京跡」を後にして、佐紀盾列(たてなみ)古墳群巡りが続く。

「日葉酢媛命陵」(12:23)
(ひばすひめのみこと)は垂仁天皇の皇后である
日葉酢媛命の山稜である狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)は、現在
奈良市山陵町に治定されている。中世、その所在を失ったが、明治8年に治定を見、修治を加えられたものである
垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。

『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように
進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、
以後も踏襲されるようになったという.
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「政務天皇陵」(12:26)
狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)に治定されている。
公式形式は前方後円。考古学名は佐紀石塚山古墳(前方後円墳、全長218m)。
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「神功皇后陵」(12:47)
神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀天皇の皇后。
神功皇后の陵墓については、古事記では「御陵は沙紀の盾列池上
(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)に在り」、日本書紀では
「狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に葬る」と記している。
狭城盾列陵とは佐紀盾列古墳群のこと。
文久3年(1863年)、五社神古墳が神功皇后陵に治定された。
宮内庁も五社神古墳を神功皇后陵(狭城楯列池上陵、
さきのたたなみのいけがみのみささぎ)としている。
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疲れて、近鉄「平城駅」から電車で「大和西大寺駅」へ。(13:20)
下車して、「西大寺」にむかう。

「西大寺石落神社本殿」(13:25)
この場所は西大寺の境内飛地であり、神社は西大寺の鎮守社として
仁治3年(1242)叡尊によって祀られたのが始まりとされています。
この本殿は正面に階段を設けず一面に床を張る見世棚造となっており、
装飾の少ない簡素な建物です。古式な要素が各所にみられ、
風蝕も著しく、建立年代は室町時代の中頃と考えられます。
奈良に多い見世棚造小社殿の中でも年代の特に古いものとして貴重。

「西大寺」(13:25 13:35)
称徳天皇の勅願により、天平神護元年(765)に創建された。
当時は広大な寺域に多数の堂塔が建ち並び、
東大寺と共に栄えていましたが、承和13年(846)以後
数多の火災にあい、創建当時の建物はほとんど焼失しました。
鎌倉時代に叡尊により復興されましたが、戦国時代には
再び火災で焼失しました。現在残っている本堂(重文)、愛染堂(重文)、
四王堂(重文)などは江戸時代中期に建てられたもの。
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「本教寺」(13:44)
「菅原天満宮」(13:52)

「喜光寺」(13:52)
この一帯が菅原氏の治領であったことから、「菅原寺」とも呼ばれる。
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも
貢献した僧・行基が創建したと伝わる。
本堂は、行基が東大寺大仏殿を建立する際に十分の一の雛形として
建てたとの伝承から、「試みの大仏殿」と俗称される。
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「垂仁天皇陵」(14:18) 619

『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、
その史実性を疑問視する説もあったが、近年においては
その実在を認めることが多い。

陵(みささぎ)は奈良市尼辻西町にある菅原伏見東陵
(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に治定されている。
公式形式は前方後円。考古学名は宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)。
周囲を巡る濠に浮かぶ小島は、田道間守の墓という。
陪塚が6基点在する。
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「唐招提寺」(14:39 14:59)
聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立された。鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するために東大寺で過ごしたが、東大寺から解放された後、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を営むことになった。やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や東塔が建立された。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招堤」から「唐招提寺」となった。

「金堂」:国宝。奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。
堂内には中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置する。ほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する(仏像はいずれも国宝)。廬舎那仏、薬師如来、千手観音の組み合わせは他に例がなく、経典にも見えないことからその典拠は明らかでない。

「開山堂と鑑真大和上御身代わり像」
御身代わり像(御影像)は、年間数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で製作したもの。この像は奈良時代の脱活乾漆技法(特に国宝和上像)を忠実に踏襲して造られた。」

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「薬師寺」(15:20 15:45)
薬師寺は「法相宗[ほっそうしゅう]」の大本山。
天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、
更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見た。
その後、平城遷都(710)に伴い現在地に移された。(718)
東塔は只今改修中。
金堂:薬師三尊像 【国宝】 白鳳時代
大講堂:弥勒三尊像 【重要文化財】

新しい「玄奘三蔵院伽藍」をみる。
 玄奘三蔵[げんじょうさんぞう](600または602~664)は、『西遊記』で有名な中国唐時代の歴史上の僧侶。17年間にわたりインドでの勉学を終え、帰国後は持ち帰られた経典の翻訳に専念、その数1335巻に及ぶ。玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]」の教え。その教えの流れを継承している宗派が法相宗[ほっそうしゅう]。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たる。昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見した。その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられた。薬師寺も玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立した。平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画だ。
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近鉄「西の京駅」で、この日の歩き旅は終了。午後15時50分。

この日は、近鉄「新大宮駅」近くBHに宿泊。