2014年4月24日(木)
この日、奥州街道:仙台・松前道「築館~有壁」(14)を歩いた。
前日の離脱地点、県道32号との交差点、出発、午前5時15分


「留場橋」(迫川)(5:32)を渡り、左折して、旧道に入る。
すぐに国道4号に合流。(5:38)
この先のY字路(宮野交差点)で国道4号線は右に、
旧奥州街道は左側の県道42号。(5:50)
すぐに国道4号に合流。(5:38)
この先のY字路(宮野交差点)で国道4号線は右に、
旧奥州街道は左側の県道42号。(5:50)
その先の信号で右折して、「宮野宿」となる。(5:53)


「皇大神社」(5:56)
宮野宿は、下宮野宿とも呼ばれていた。
宮野幼稚園が、かつての宮野代官所跡。かつての検断屋敷(現及川家)。
入り口には「中世大崎古文書」の白柱。(6:06)
宮野宿を出て、国道4号線に合流地点に、能持寺がある。(6:14) 。
臥牛公園にある「宮野城(臥牛城)」をついつい忘れてしまった。
宮野宿は、下宮野宿とも呼ばれていた。
宮野幼稚園が、かつての宮野代官所跡。かつての検断屋敷(現及川家)。
入り口には「中世大崎古文書」の白柱。(6:06)
宮野宿を出て、国道4号線に合流地点に、能持寺がある。(6:14) 。
臥牛公園にある「宮野城(臥牛城)」をついつい忘れてしまった。
国道4号線に合流して少し進むと、旧奥州街道は左に入る。(6:16)。
国道4号線に合流。(6:23)
国道4号線に合流。(6:23)
「筑館出土文化財管理センター」の看板を見て、左折。(6:24)
丘陵地に田畑が広がり、城生野地区の集落へ。
丘陵地に田畑が広がり、城生野地区の集落へ。
「照明寺」前に「伊治城とその出土品」の説明板がある。(6:42)
伊治城が、この筑館町城生野台地の一角に造営されたのは確実だとのこと。

伊治城が、この筑館町城生野台地の一角に造営されたのは確実だとのこと。

「伊治城外郭北辺土塁及び大溝跡の碑」(6:56)
「筑館出土文化財管理センター」は、早朝のため閉館中。(7:02)
旧築館(つきだて)町にある奈良時代の城柵・官衙跡。
迫(はさま)川(一迫川)と二迫川の河岸段丘に築かれ、政庁や官衙の建物が、
外郭の外では兵士の宿舎と思われる多数の竪穴住居跡が見つかっている。
伊治城が当時最北の陸奥支配の拠点として、
鎮守副将軍の田中多太麻呂(ただまろ)らにより築かれたのは767年(神護景雲1)。
これとともに陸奥国栗原郡が設置され、
以来、平安時代初めの9世紀ごろまで半世紀にわたって朝廷の陸奥支配の重要拠点となった。
城跡は現在、田畑、住宅地になっており、わずかに土塁跡が残っている。


「筑館出土文化財管理センター」は、早朝のため閉館中。(7:02)
旧築館(つきだて)町にある奈良時代の城柵・官衙跡。
迫(はさま)川(一迫川)と二迫川の河岸段丘に築かれ、政庁や官衙の建物が、
外郭の外では兵士の宿舎と思われる多数の竪穴住居跡が見つかっている。
伊治城が当時最北の陸奥支配の拠点として、
鎮守副将軍の田中多太麻呂(ただまろ)らにより築かれたのは767年(神護景雲1)。
これとともに陸奥国栗原郡が設置され、
以来、平安時代初めの9世紀ごろまで半世紀にわたって朝廷の陸奥支配の重要拠点となった。
城跡は現在、田畑、住宅地になっており、わずかに土塁跡が残っている。


「富野小学校」を過ぎると、砂利道。
左前方に栗駒山が見える。

左前方に栗駒山が見える。

大小、二つの赤い橋(歩道専用橋)で、芋埣川、二迫川を渡ると
広大な田圃が広がる。

広大な田圃が広がる。

田圃の中の一本道を歩く。
根岸下橋(熊川)(7:35)
親柱にブロンズの牛若丸像が藤原秀衡に挨拶する像が設置されている。
親柱にブロンズの牛若丸像が藤原秀衡に挨拶する像が設置されている。
左岸道:根岸花街道を行くと、「常現寺跡」と「富城跡」の案内がある。
寄り道(7:44 8:10)
「常現寺跡」は,今は、共同墓地。
山道を上って、「富城跡」を訪ねるが、祠が一つあり、その先はヤブで不明。
ここが「富城跡」としよう?

寄り道(7:44 8:10)
「常現寺跡」は,今は、共同墓地。
山道を上って、「富城跡」を訪ねるが、祠が一つあり、その先はヤブで不明。
ここが「富城跡」としよう?

国道4号線を横断し、築館から金成姉歯(かんなりあねは)地区に入る。(8:15)
右手に「三界万霊供養塔」と説明板がある。(8:15)
飢饉で、天明八年には、過去帳から、40%の家で死亡者がでたという。
知らぬ土地に行き、野垂れ死した者もあるから、相当の数だったのだ。
飢饉で、天明八年には、過去帳から、40%の家で死亡者がでたという。
知らぬ土地に行き、野垂れ死した者もあるから、相当の数だったのだ。
国道4号に合流。(8:26)
退屈な国道あるきがしばらく続く。
Y字路を右折して、国道を離れる。(8:40)
退屈な国道あるきがしばらく続く。
Y字路を右折して、国道を離れる。(8:40)
「達田橋」三迫川(さんはさまがわ)(8:44)
ここで「沢辺館跡」(別称:臥牛館)を訪ねる。(8:44 9:10)
沢辺館は三迫川の南岸にあり現在は臥牛館公園となっている。
沢辺館は三迫川の南岸にあり現在は臥牛館公園となっている。
本丸には八幡神社が鎮座し、北に三の丸、
北東の公園になっている部分が二の丸という。築城年代は定かではないが,正治年間(1199年~1201年)頃に
二階堂刑部常信によって築かれたと云われる。
二階堂氏は葛西氏の家臣で衣川より移り
沢辺氏を称して四代続いたという。
天正4年(1576年)葛西大崎合戦により、
再び葛西氏の所領となると重光の時に再び臥牛館に移った。
天正18年(1590年)奥州仕置により葛西氏は改易となり、
その後伊達氏に仕えた小野寺道行、道重、道貞の三代が
臥牛館に住んだという。

二階堂刑部常信によって築かれたと云われる。
二階堂氏は葛西氏の家臣で衣川より移り
沢辺氏を称して四代続いたという。
天正4年(1576年)葛西大崎合戦により、
再び葛西氏の所領となると重光の時に再び臥牛館に移った。
天正18年(1590年)奥州仕置により葛西氏は改易となり、
その後伊達氏に仕えた小野寺道行、道重、道貞の三代が
臥牛館に住んだという。

達田橋を渡り、右折すると「沢辺宿」となる。(9:15)((9:15)の他、
かつての「くりはら田園鉄道の踏切跡」(9:27)
もとの金成町役場である栗原市役所金成総合支所(金成庁舎)がある。(9:29 )
ショッピングセンターで一休み。(9:40 10:20)
かつての「くりはら田園鉄道の踏切跡」(9:27)
もとの金成町役場である栗原市役所金成総合支所(金成庁舎)がある。(9:29 )
ショッピングセンターで一休み。(9:40 10:20)
「金成荒崎交差点]で国道4号を横断。(10:23)
「月見橋」(10:27)
「金成宿」は南から上町、中町、新町となり、本陣(菅原家)や代官所が置かれた。
「月見橋」(10:27)
「金成宿」は南から上町、中町、新町となり、本陣(菅原家)や代官所が置かれた。
寄り道(10:33 11:00)
「金成代官役所跡」(10:36)
現在、けやき会館が建っている所に金成代官役所があった。
現在、けやき会館が建っている所に金成代官役所があった。
「金成歴史資料館」(10:37)
明治41年に建てられたかつての金成小学校.

明治41年に建てられたかつての金成小学校.

「金成ハリスト正教会」(10:40)
日本では珍しいロシア正教・金成ハリストス正教会で昭和9年に建てられたもの。
函館ハリストス正教会の設計者である河村伊蔵の最後の作品であった。
金成出身の酒井篤礼(とくれい)は、函館で医業を営んでいる時に、
友人の沢辺琢磨とともに、ロシアの宣教師より日本人として始めての洗礼を受ける。
明治2年に金成に戻り、ハリスト正教の布教を開始するが捕捉され2年間獄舎に入る。
その後、東京でニコライに師事し、再び金成に戻り、仮会堂を建て布教活動を始める。
しかし人々の迫害を受け、明治12年に仮会堂は破壊されてしまう。
その後古い民家を買い取り教会を建設、信者の数も124名を数えるようになった。

日本では珍しいロシア正教・金成ハリストス正教会で昭和9年に建てられたもの。
函館ハリストス正教会の設計者である河村伊蔵の最後の作品であった。
金成出身の酒井篤礼(とくれい)は、函館で医業を営んでいる時に、
友人の沢辺琢磨とともに、ロシアの宣教師より日本人として始めての洗礼を受ける。
明治2年に金成に戻り、ハリスト正教の布教を開始するが捕捉され2年間獄舎に入る。
その後、東京でニコライに師事し、再び金成に戻り、仮会堂を建て布教活動を始める。
しかし人々の迫害を受け、明治12年に仮会堂は破壊されてしまう。
その後古い民家を買い取り教会を建設、信者の数も124名を数えるようになった。

日枝神社(10:57)
本線・旧道に戻る。(11:00)
「本陣跡」(11:05)
現在は、金成公民館が建てられている。
現在は、金成公民館が建てられている。
先に進むと、「奥州街道→」の道標があったので、右折。(11:12)
国道4号を横断して、ちいさな「新町大橋」を渡って、左カーブ。(11:13)
国道4号を横断して、ちいさな「新町大橋」を渡って、左カーブ。(11:13)
開けた風景の中を進む。
「バス停西島美紀子」は見当たらず、
個人宅表札「西島」があった。(11:20)
そう、この辺りのバス停には、個人名がバス停名になっているようだ。
「バス停西島美紀子」は見当たらず、
個人宅表札「西島」があった。(11:20)
そう、この辺りのバス停には、個人名がバス停名になっているようだ。
国道4号から入る道を過ぎ、Y字路を右に。(11:29)
坂を上って、熊谷牧場は、草で覆われ、廃墟?と思って、
近くづくと、大きな牛が多数座り込んでいた。(11:38)
坂を上って、熊谷牧場は、草で覆われ、廃墟?と思って、
近くづくと、大きな牛が多数座り込んでいた。(11:38)
左から来る道2本が過ぎ、そろそろ右手に山道が現われると思いつつ行くと、
そこに「奥州街道→」の道標があった。(11:52)

そこに「奥州街道→」の道標があった。(11:52)

草で覆われているが、道筋ははっきりとしている。
所々に、「奥州街道の道標」あるのだ。(11:53)(12:08)
そして林道に出る。(12:10)
所々に、「奥州街道の道標」あるのだ。(11:53)(12:08)
そして林道に出る。(12:10)
トンネルをくぐる。(12:12)
「奥州街道←の道標」(12:14)
「奥州街道←」(12:18)

「奥州街道←の道標」(12:14)
「奥州街道←」(12:18)

金成5kの「奥州街道→の道標」と有壁4.5kの「奥州街道←の道標」で、
車道を横断。(12:26)
車道を横断。(12:26)
「新鹿野一里塚」の案内板(12:31)


その先は畑で旧道は不明。
でも「奥州街道の道標」はある。(12:48)
でも「奥州街道の道標」はある。(12:48)
「大橋」(金流川)(12:50)
T字路、左。(12:53)
そばに「奥州街道→」がある。(12:53)
T字路、左。(12:53)
そばに「奥州街道→」がある。(12:53)
「奥州街道←」の先に、「案内板」があるので読みに行く。
「奥州街道と十万坂案内板だった。
源義家が衣川柵の阿部貞任を攻略した前九年の駅の時、
ここで10万張の弓矢を作り、衣川に向かったことから、
この地名となったとのことであった。

「奥州街道と十万坂案内板だった。
源義家が衣川柵の阿部貞任を攻略した前九年の駅の時、
ここで10万張の弓矢を作り、衣川に向かったことから、
この地名となったとのことであった。

手前で左折して進む。
「奥州街道→」(12:56)と「奥州街道←」(12:57)で、
民家の間を抜けるように草道を上がって行く。

「奥州街道→」(12:56)と「奥州街道←」(12:57)で、
民家の間を抜けるように草道を上がって行く。

後は、杉林の山道,草道を行く。
風景が開けて、林道?に出る。(13:10)


Y字路を左折。(13:14)
「奥州街道・有壁宿」の幟が立つ。
県道185号の標識があった。(13:26)
「奥州街道・有壁宿」の幟が立つ。
県道185号の標識があった。(13:26)
「奥州街道→」(13:29)
「東北本線の踏切」を渡る。(13:37)
「東北本線の踏切」を渡る。(13:37)
「旧有壁宿の本陣」(13:40)
ただ今改装中のようだ。かなり大きな建屋だ。
ただ今改装中のようだ。かなり大きな建屋だ。
ここで、本日の歩きは終了とした。 午後13時45分。
東北本線有壁駅から「一の関駅」へ、駅前のBHに宿泊。