緊急事態宣言も北海道と首都圏を除いてすべて解除され、残る北海道と首都圏についても明日解除される…かもしれないところまできたよね。
というわけで、規制についても全面解除…というわけにはどうやらいかないみたいだね。
海外の例を見ても、規制を解除したところ第2波がおこったりしているわけだし、たとえ緊急事態宣言が全面的に解除されたとしても、引き続きコロナウイルスに対する警戒を緩めてはいけないようで…。
というわけで、緊急事態宣言が解除されたからと言って、すぐ旅行に行けるようになると言うわけにはいかないみたいだね…もっとも、それでなくても忙しいわけで、そもそも旅行どころじゃないけどね(って、何じゃそりゃ)。
そこで、今回もまたバーチャル旅行の6日目の模様をお届けするね。
えっ?せんとくん、何だって?…お父さん、性懲りもなくまだこんなくだらないブログを続けるつもりなの?
お父さん、よっぽどネタに困ってるんだねって?
コラ、せんとくん。あんたはまた余計なことを言って…。
ったく、あんたはどうしてそういう余計なことばっかり言うの…。
それじゃあ、気を取り直して今日のブログ…を始める前に前回までのお話の紹介からするね。
「おうちで楽しめる趣味を教えて」(2020年4月26日更新)
「”おうちで楽しめる趣味を教えて”」(2020年4月29日更新)
「””おうちで楽しめる趣味を教えて””」(2020年5月2日更新)
「”””おうちで楽しめる趣味を教えて”””」(2020年5月3日更新)
「””””おうちで楽しめる趣味を教えて””””」(2020年5月5日更新)
「”””””おうちで楽しめる趣味を教えて”””””」(2020年5月10日更新)
まだ読んでいない人は、こちらから読んでみてね。
この日は東萩駅前から7:26発の萩循環まぁーるバスに乗って萩反射炉に行ってみよう。
萩循環まぁーるバスは東回りコースと西回りコースがあって、東回りコースには「松陰先生」、西回りコースには「晋作くん」の愛称がついているよ。
運賃は1乗車につき100円で1日乗車券(500円)や2日乗車券(700円)もあるよ。
これに乗車すると萩しーまーとに7:35に到着、そこから徒歩5分ほどのところに萩反射炉はあるよ。
この萩反射炉は西洋式の鉄製大砲鋳造を目指して萩藩が1856年に建設したものね。
この反射炉は佐賀藩の反射炉のスケッチをもとにして造られた試作炉だと考えられているんだって。
この当時の反射炉の遺構としては他には韮山(静岡県)と旧集成館(鹿児島県)に残っているのみであることから、産業技術史上貴重なものであり、2015年には世界遺産にも指定されているよ。
その萩反射炉はこちらだよ。
そこから再び8:05発の萩循環まぁーるバスに乗って今度は松陰神社に向かうね。
松陰神社前到着は8:09だよ。
松陰神社は吉田松陰を祭神とする神社で、1907年(明治40年)に創建された神社だよ。
この松陰神社の中には世界遺産にも登録された松下村塾もあるよ。
この松下村塾は1857年11月に吉田松陰が杉家隣の小屋を改装して開いた.、8畳1間の塾ね。
というわけで、松下村塾は吉田松陰が開いた塾…と思いきや、どうやらそれ以前から既に松下村塾はあったみたいだよ。
松下村塾ができたのは、1842年に吉田松陰の叔父の玉木文之進が現在は史跡「玉木文之進旧宅」になっている場所で開いた私塾に「松下村塾」と名付けたのが始まりなんだって。
この松下村塾には当時はまだ幼かった吉田松陰も通っていたみたいだよ。
その「松下村塾」は玉置文乃進が官職に就いて多忙になったことから閉鎖されるが、その後今度は吉田松陰の外戚である久保五郎左衛門が塾を開いたときに松下村塾の名前を引き継いだんだって。
こちらの「松下村塾」では吉田松陰の他に伊藤博文も学んでいたみたいだよ。
その玉置文之進、久保五郎左衛門から松下村塾の名前を引き継いで吉田松陰はこの場所に塾を開いたわけね。
その松下村塾で吉田松陰は尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学などを始めとした広範な学問を行っていたんだって。
そして、ただ自身が講義をするだけではなくて、活発な議論も行っていたんだって。
ところが、1858年に大老であった井伊直弼が幕府に反対する者たちに対して弾圧を行った…これが安政の大獄ね。
吉田松陰は尊王攘夷を旨としたが学問を行っていた…ということは、日米修好通商条約などを諸外国と締結した井伊直弼にとって、これは都合が悪いものだったんだろうね。
吉田松陰も安政の大獄で捕えられて処刑されてしまう。
その後、塾生が勉強会を開いたり、一時期玉木文之進が再開させたりしたけど、1880年に塾を再開させた吉田松陰の実兄である杉民治が1892年に私立学校の校長に就任したことにより松下村塾は閉鎖されて約50年の歴史に幕を下ろすことになったよ。
それじゃあ、まずは松陰神社の本社にお参りをすることにするね。
この本社は1955年にできたものなんだって。
そこから松下村塾に行ってみよう。
この松下村塾の建物は2015年には世界遺産にも指定されたよ。
それから吉田松陰幽因ノ旧宅にも行ってみよう。
この旧宅は天保年間に建てられたものだと言われていて、吉田松陰の生家でもあるよ。
ペリー来航の際にアメリカへの密航を図ったことで投獄されていた吉田松陰が1855年に下獄後に幽閉されていたところでもあるよ。
この吉田松陰幽因ノ旧宅も世界遺産に指定されているよ。
松陰神社には吉田松陰歴史館もあるから、そこにも行ってみよう。
この吉田松陰歴史館は吉田松陰の生涯を20の場面に分けて、70体以上の蝋人形で再現させた施設ね。
あっ、この施設にある吉田松陰の蝋人形は安政の大獄で蝋人形にされた吉田松陰のなれの果ての姿じゃないからね(って、当たり前だろうが)。
それから松陰神社宝物館 至誠館にも行ってみるね。
この宝物館は吉田松陰が遺した著述、物品の永久保存を目的としていて、それらを展示することを通じて、吉田松陰の思いを現代に伝えることを狙いとしているんだって。
それじゃあ松下村塾の模様をお届けするね。
次に伊藤博文旧邸と伊藤博文別邸にも行ってみよう。
伊藤博文旧邸と伊藤博文別邸は松陰神社のすぐ近くにあるよ。
伊藤博文は初代総理大臣で後に1,000円札の肖像になったこともあるよね。
伊藤博文旧邸は1854年に伊藤博文の父の林十蔵が伊藤家の養子になったことで博文も過ごすことになった家ね。
この伊藤博文旧邸は木造茅葺平屋建の約29坪の小さな家なんだよ。
伊藤博文は1868年(明治元年)兵庫県知事に就任するまでこの旧邸を本拠にしていたよ。
実はこの伊藤博文旧邸は保存修理工事中で2021年3月まで一般公開を中止しているんだけど…それも関係なしに行けるのがバーチャル旅行のいいところね(って言うか、バーチャルだからそもそも行ってないだろうが)。
その伊藤博文旧邸のそばにはほぼ等身大の伊藤博文胸像も建っているから、それも忘れずに見ていかなくちゃね。
その伊藤博文旧邸の隣には伊藤博文別邸もあるよ。
伊藤博文別邸は1907年に東京府下荏原郡大井村(現東京都品川区)に建てた大邸宅の一部を移築したものね。
この伊藤博文別邸は、車寄せを持つ玄関の奥に、中庭をはさんで向って右に西洋館、左に書院を配し、さらにその奥に離れ座敷、台所、風呂及び蔵を備えた広大な屋敷だったみたいだよ、
このうち萩に移築したのは、大広間、離れ座敷そして玄関の一部の3棟なんだって。
その大広間の鏡天井には樹齢約1,000.年の吉野杉も使われているみたいだよ。
伊藤博文別館の入館料は100円(小学生未満とせんとくんは無料)だけど、木戸孝允旧宅、青木周弼旧宅、旧久保田家住宅、口羽家住宅、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋、旧湯川家屋敷、桂太郎旧宅、旧田中別邸の入館との萩市文化財施設1日券もあるからこれらの施設にも併せて行く人はそちらの購入をおススメするね。
その伊藤博文旧邸と伊藤博文別邸はこんなところだよ。
ここから松陰神社前まで戻って再び萩循環まぁーるバスに乗るよ。
松陰神社10:09発の東まわりコースのバスに乗って萩市役所には10:26に到着する。
萩市役所で10:30発の西回りコースのバスに乗り換えて玉木病院前まで行く…10:33に到着するよ。
そこから木戸孝允旧宅に行ってみよう。
この木戸孝允旧宅は、木戸孝允が生まれてから生まれてから江戸に出るまでの約20年間過ごした家で、木造瓦葺2階建の家だよ。
その木戸孝允は藩命によって木戸姓を名乗るまでは桂小五郎と名乗っていたよ。
木戸孝允は近代国家樹立のために多大の功績を残していることから、西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑とされているよ。
その木戸孝允は才能を買われて京に出て、長州藩の外交の第一線に立つことになったよ。
ところがそれから池田屋事件、禁門の変がおこり、長州藩は朝敵とされてしまう。
池田屋事件で新撰組が池田屋に乗り込んできたとき、木戸孝允は池田屋に足を踏み入れたものの難を逃れたんだって。
禁門の変のときは、一度は残党狩りに捕えられるが「もよおした」と偽って逃亡したんだって。
その後は乞食に化けたりして密かに活動をしていたんだって。
そのことから、逃げの小五郎という不名誉な言われかたまでされていたんだって。
だが、1866年には坂本龍馬の仲介で薩摩の西郷隆盛との間で薩長同盟を結ぶのに木戸孝允は貢献したよ。
これによって、長州藩は薩摩藩を経由してイギリスから大量の近代兵器を購入することで、第二次長州征伐で幕府軍を撃退…王政復古の大号令が出されると、薩摩軍とともに討幕戦争をしかけたよ。
明治新政府でも木戸孝允は、参与・参議として五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県を行って、中央集権国家の樹立に貢献したよ。
一時は逃げの小五郎という不名誉なことまで言われながらも後に討幕や明治新政府のもとで大きな貢献をしたわけだから、これこそまさに「逃げるは恥だが役に立つ」ということを身を持って実証したわけだよね(って言うか、誰がそんなネタをやれって言ったんや)。
この木戸孝允旧宅も萩市文化財施設1日券が使えるよ。
その近くには菊屋横丁もあるからそこにも行ってみようか。
萩城の城下町は外堀の外側に広がっていて、町筋は碁盤目状に区画されて中・下級の武家屋敷が軒を連ねていたんだって。
その町筋は今も残っていて、菊屋横丁もその一角にあるよ。
この菊屋横丁は、白いなまこ壁が美しく「日本の道百選」にも選定されているよ。
その菊屋横丁には菊屋家住宅もあるから行ってみよう。
この菊屋家住宅は萩藩きっての豪商であった菊屋家の住宅であって、幕府巡見使の宿として度々本陣にあてられたんだって。
その菊屋家住宅の敷地は約2,000坪あって、敷地内にある主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟の建物は国の指定重要文化財にも指定されているよ。
その菊屋家住宅についてはこちらを見てみてね。
その近くには高杉晋作誕生地もあryからそこも立ち寄ってみるね。
高杉晋作は明倫館や松下村塾にも通っていて、頭角を著してきたんだって。
高杉晋作といえば、身分を問わない軍事組織である奇兵隊を組織して第二次長州征伐の時に幕府軍を撃退することにも貢献したよね。
でも、その後結核を患って1867年に27歳8か月という若さでこの世を去っているんだって。
高杉晋作が結核を患うことなく、明治まで生きていたら、やはり明治政府で日本の近代化に貢献していたのではないかと思われるよ。
そろそろお昼時だしお昼ごはんにしようかな?
今回は「庭園カフェ 畔亭」(ほとりてい)さんに行くことにするね。
このお店は、屋敷を利用した食事邸で、枯山水の庭を眺めながら料理を食べることができるよ。
今回はこのお店の人気メニューである長萩和牛ハンバーグを食べることにするね。
食後にはコーヒーを飲みながら、ゆっくりと枯山水の庭を眺めることにするね。
それじゃあ、ゆっくりしたいから今日はここまでにするね。
えっ?せんとくん、何だって?…お父さん、これはバーチャル旅行でしょ?
バーチャル旅行でゆっくりしたいも何もないじゃない。
本当はお父さん、ブログが長くなってきて、めんどくさくなってきただけなんでしょって?
コラ、せんとくん。何バラしてるの。
ったく、それはバラしたらダメでしょ。
えっ?何だって?…しかも長くなったのも余計なことばっかり書いて無駄に長くなっただけなんだよねって?
うるさい。あんたはそうやって余計なことばっかり言うんじゃないの…。
(お願い)
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