昨日は御所市と葛城市に行ってきたんだよ。で、何故昨日すぐ書かなかったのかと言えば、昨日は土曜ワイド劇場見てたら寝ちゃった。で、犯人誰だった?(知るか)。

 まずは車で一気に南に向かう。そして、最初の目的地はこちら


NOBURINの別荘-2010060512580000.jpg
水平社博物館である。ここ御所市柏原は水平社発祥の地なのである。何故、この地から水平社運動が起ったのかと言えば、近代初頭から差別との具体的な闘いが続けられてきたこと、そして、それを可能にした経済力があったこと、具体的に言えば、この地では膠(にかわ)産業があり、これが奈良の名産の墨づくりに欠かせないものであったから比較的経済力があったことがこのような活動を可能にしたのであろう。

 ちょうど今こんな特別展もやっているよ。


NOBURINの別荘-2010060513010000.jpg
「大逆事件と部落問題」の展示。今年2010年は平城遷都1300年の年であるけど、同時に大逆事件からちょうど100年目の年でもあるんだ。

 2階の展示室へ。まずは阪本清一郎の回想録から。阪本清一郎がエタという言葉を覚えたのは7~8歳の時のこと。自分の祖先がエタであったということで嫌われたりいじめられたりしたと言うことが書いてあった。勉強さえしてエラクなったら常に涙ながらに聞かされていたんだって。

 1871年10月12日に解放令が布告された。これは、エタ、非人の身分を廃止して平民とするものである。だが、この解放令により解放されることはなかった。明治政府は解放令を出すだけで、具体的な部落解放政策は何ら行わなかった。それどころか、解放令反対一揆の取り締まりすらしなかった。結局この解放令は四民平等の理念に基づいたものではなく、地租徴収のための形だけのものであった。

 そのため、部落の生活は解放令によってかえって苦しくなったのである。解放令によって江戸時代の所有権無税扱いや死牛馬処理権を失ったためである。しかも、差別がなくなることはなく、壬申戸籍にも新平民と記載され、この解放令が「枝郷岩崎」には届けられることもなかったと言われている。

 だが、そんないわれのない差別と闘ってきた人達が団結するようになってきた。その動きはやがて全国的なものになり、1922年3月3日京都市岡崎公会堂で全国水平社創立大会が開催された。この大会には全国各地から700人の部落大衆が結集したと言われている。また水平社宣言を起草したのは西光万吉であった。この大会で阪本清一郎が経過報告を行い、駒井喜作が宣言を読み上げている。ファンタビューシアターではその時の様子を再現しており、創立大会参加の体験もできるよ。

 この全国水平社の創立に尽力したのが、阪本清一郎、駒井喜作、西光万吉(本名清原一隆)といった柏原の青年らであった。この大会で阪本清一郎が経過報告を行い、駒井喜作が宣言を読み上げている。また、水平社宣言を起草したのは西光万吉であった。 

 水平社という組織の名称を発案したのは阪本清一郎である。「あらゆる尺度というものは人間が作った。そしてその尺度によっていろいろな差が出てくる。絶対に差のできないものは水平である」と阪本清一郎は語ったそうである。

 しかし、全国水平社は日中戦争開始以降、戦争への全面協力を余儀なくされるところとなり、総力戦構築を通じ差別の撤廃をめざす転向者も出るようになる。そのようななかで、全国水平社は翼賛体制に組み込まれることを潔しとせず自然消滅した。

 戦後、水平社運動の再建が協議され、1946年2月に部落解放全国委員会(部落解放同盟の前身)が結成された。

 特別展示室では大逆事件を取り上げていたよ。大逆罪とは皇室に関する罪として刑法73条に規定されていた(1947年に削除)。

「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス 」という規定がこれ。この大逆罪に問われたケースは4件あるがそのうち最も有名なのが1910年の所謂「幸徳事件」。

 この事件の発端は1910年に宮下太吉ら4名の社会主義者によるによる明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された信州明科爆裂弾事件。この事件を口実に明治政府は社会主義者や無政府主義者の首謀によるものとでっち上げて、幸徳秋水ら26名をを逮捕、起訴したもの。

 この事件の裁判は大審院(現在の最高裁判所)の1審のみで結審。それも非公開で行われた。判決は24名が死刑(うち12名は特赦で無期懲役に減刑される)、有期刑2名であった。12名の死刑は判決後1週間以内という異例の早さで執行されている。

 その中には臨済宗の僧侶内山愚童もいた。内山愚童は林泉寺の住職であったが小作農の貧しい暮らしを見て、自らの考えを「無政府共産」という冊子にして当時の社会主義者らに配布する。当時の小作人は自分の田畑で作った作物の半分を地主に取られ、残りの中から政府に税金を取られ、生活のために売る作物も商人から安く買いたたかれていた。おまけに、男の子は21歳になると徴兵にとられていった。そのため、米を食べることすらできず、粟飯を食べていた。この現状をおかしいと思った内山愚童が記したのが前述の著書。この著書は、天皇制をも否定する当時の政府から見れば所謂「危険思想」であった。当時は社会主義者の間ですら天皇制の否定はしておらず、「無政府共産」は幸徳秋水ですら受け取らなかったほどであると言われている。その内山愚童は「無政府共産」とダイナマイトを所持していたと言う理由で逮捕される(もっとも、ダイナマイト所持はハメられたかでっち上げのどちらかではないかと思われるが)。そして、大逆罪が適用され死刑となる。この内山愚童のビデオもあったよ。

 エピローグのコーナーは参加体験型のコーナー、楽しみながら人権学習ができるようになっている。例えば正方形に線を入れるとゆがんで見えたりするというものが紹介されている。中村玉緒さん、池のめだか師匠の話も聞けるよ。それとキング牧師の演説を聞くこともできる。その演説の中に自分自身が入ったりしてたよ。

 水平社博物館から見た人権のふるさと公園


NOBURINの別荘-2010060515270000.jpg
時間がある人はフィールドワークをしてみるのもいいんじゃないかな?

 さて、御所市から今度は葛城市へと向かう。


NOBURINの別荘-2010060516430000.jpg
葛城市相撲館「けはや座」である。相撲の資料館というのは全国でも珍しいらしい。相撲の改組「當麻蹶速」(たいまのけはや)の顕彰を目的に相撲の普及活動を積極的に行うと共に、観光の拠点としての催しも行っている。

 相撲館にあった土俵


NOBURINの別荘-2010060516530000.jpg
土俵は丸いからタテに撮ってもヨコに撮っても同じだろうと安易に考えて撮ったらこんな写真になっちゃったよ(いい加減だなあ)。この土俵は本場所で使われているものと全く同じもの。勿論土俵の上に上がることもできるよ。

 NOBURINも土俵の上に上がってみる。土俵は結構固い。こんなところで投げ飛ばされたら痛いんだろうなあって思う(どんな感想やねん)。土俵の隅には塩もあった(あんまり入ってなかったけど)。塩もさわってみる。案外サラサラしてるんだなあ。舐めてみたらしょっぱかったよ(当たり前だろうが)。

 展示品を見てみる。千代の富士VS貴花田(後の貴乃花)の取り組みの写真なんかもあった。懐かしいなあ。千代の富士、隆の里、北の湖、輪島、大鵬、柏戸といった名横綱の現役時代の写真もあったよ。番付表ができるまでも展示されていた。番付1枚書くのに10日ほどかかるんだって。序の口なんか字が細かいからねえ。因みに序の口は虫眼鏡がないと字が読めないくらいに小さい字で書かれているから「虫メガネ力士」とも言われている。奈良県出身の力士も紹介されていたよ。特に大真鶴は大々的に紹介されていた。生まれたときからの写真もあった。因みに川上中学時代は野球部であったとか。

 関取の稽古まわしの布地もあった。さわってみると結構固い。稽古まわしの色は関取(十両以上)は白、幕下以下は黒で、幕下以下は本場所でも同じまわしを使う。

 「水平社博物館」と「葛城市相撲館『けはや座』」はあおによし奈良の都の穴場的な観光スポット。有名観光地とはまた違った魅力があるよ。

 おまけ…葛城市で撮った空の写真


NOBURINの別荘-2010060517240000.jpg
この写真を撮った理由は…特にない(何じゃそりゃ)。茉奈chanがよく空の写真を載せているのでそのパクリである(それ、アカンで)。