理由は、
以前この記事に書いた
「怖いと思う人」が存在する理由
の延長的な感じ。
自分自身のことを
「怒られる人間」だと思っている
から、
人に注意されるだけでも
「怒られる」と表現する。
(※本人の感覚的には、誇張ではない)
・背中を軽くはたかれた
・背中を叩かれた
・背中を殴られた
みたいな、
「動作」は一緒だけど
「表現」によって
イメージがだいぶ違ってしまう
ような感じで、
本人は悪気ないんだけど、
「怒られる」ことが怖くて
「怒られる」ことに過敏になってるから、
ふつーの人だったら
「軽くはたかれた(=注意された)」
と表現するかもしれないことを
「叩かれた(=怒られた)」
と受け取る。
(=過敏になってるから、傷つきやすい)
そして、
そんな感覚で何十年と生きてきてるから、
自分の辞書には
「怒られる」という表現しか
なくなってる。
だから、
出来事が小さくても、
「怒られる」という感覚
でしか処理できない。
これ、やばいよね。
「出来事」ありき
で表現されるのではなくて、
「自分が怒られるかどうか」
ありきで
出来事が認識&表現される。
それを、
Xさんが話してるのを聞いて
気づいたんだ。
ラクに楽しく美しく
「魅力」と「新たな可能性」をヒラク
魅力解放アドバイザーの
豊栄信江(ほうえいのぶえ)です。
もちろん、
「自分は怒られる人間」
という前提
を持ってる人だから、
実際に「怒られる出来事」の方を
多く作り上げてるとは思うんだけど、
(※「思考が先。現実は後。現実を見れば、思考がわかる」
という心屋の鉄板の考え方から)
だからといって、
100%「怒られる」出来事なわけではない
はず。
というわけで、
「自分は怒られる人間」という前提は
第三者に伝える時に
事実をねじ曲げる
可能性があるし、
何より
自分自身が
勝手に傷ついたり、
恐れたりしている
可能性もあり得るよね、
という話。
自分が使っている言葉が、
「注意される」なのか
「怒られる」なのか、
果たしてそれは適切な表現なのか、
振り返ってみよう。
そして、
「怒られる」という言葉を使っているときに
「怖い」や「罪悪感」を感じている人は、
「自分は怒られる人」
という前提が
反応しているのかも、
と気づこう。
たぶん、
私たちと違って
そんな前提を持っていない人は、
実際に「怒られる」という表現が適切な
出来事があったとしても、
「怒られちゃったなーーーーー」
くらいな感情で終わってるはず。
「じゃあ、そうなるようにはどうすればいいの?」
ということを書きたいんだけど、
それは、
結論は出なかった(苦笑)
「あーーー
『怒られる』ということに
過剰に反応してるなーーー」
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