北条政子の演説 | NobunagAのブログ

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鎌倉殿の13人での
北条政子の演説は、
いわゆる「史実」とは、
やや違う内容であったが

「鎌倉殿の政子」

にしか語れない
素晴らしいものとなった。

では、史実では本当は
どのようなものであったかと
言うと残された資料により
違いがある。

いわゆる「原本」、原稿が
そのまま残されていると
いうわけではないため、
であればこそドラマオリジナルの
演説が存在してもいい、と
三谷幸喜氏は考えたのだろう。

それでも鎌倉殿の13人が、
一応の原作としている
「吾妻鏡」では、
こんなふうに書かれている。

「これが私の最初で
最後の言葉です。

頼朝様が朝敵を倒し
関東を治めて以来、
皆の官位も領地も
高くなったはずです。

その恩は山よりも高く
海よりも深いはずです。

それを忘れてはいませんね?

いま、逆臣たちの讒言により
ひどい綸旨が下りました。

武士として名を落としたくないと
思う方は早く藤原秀康、
三浦胤義を討ち果たし
源氏三代の遺跡を守りなさい。

もし上皇につきたいと
思う者がいるならば、
ここで申し出てください」

藤原秀康だけでなく、
三浦義村の弟、胤義も
名指しで討つようにと
されてしまっているが、
これはそもそも相手が
上皇であることに起因している。

政子の本心からすれば、
当然、一番の火種である
上皇にひと泡吹かすことが
最大の目的である。

が、当時は(今もだが)
天皇及びその父である
上皇というのは、
人にして人にあらず…

日本を治める神様であり
その天皇家に弓を引く、
ということは本来なら
許されないことだ。

だからこそ名目上は
上皇を惑わせている
逆賊を討つ、
というのが掲げる大義であった。

以前にも書いたが、
この時代の武士たちは
神仏を何より敬っていたし
戦争には大義が必要だった。

朝敵とされたのは
上皇を惑わす人間がいたからで
天上人である上皇を
惑わせるような誤った者は
排除しなくてはならない。

上皇を討つわけではない。

こう明確にすることで、
武士たちの中にあった
天皇家に弓を引く、
ということへのおそれを
見事に打ち消した。

「上皇につきたい者は
申し出てください」

というのはドラマでは
泰時が

「そのような者は
ここにはございません!」

とうまく補足していたが、
まさにそういうことである。

政子はあえて日和る者は
日和りなさい、と
わざわざ述べることで

「そんな怖気づく者は
ここにはいませんよね?」

と武士たちの誇りに
逆説的に問いかけて
いるということだ。

こう言われて奮わない者など、
それこそ武士ならば
いないはずである。

そして、こうすることで
彼らに

「己で選択した」

という自覚を覚えさせ
覚悟を決めさせる
こともできる。

本来、この演説は
政子本人が語ったというより
彼女の側近をつとめていた
安達景盛(安達盛長の息子)が
代読した、と言われている。

まぁ、それを忠実にすると
ドラマとして盛り上がりに
欠けるからさすがに
この演説は政子本人が
行ったとする描き方のほうが
主流である。

(景盛の出番が少なかったのは
ちょっと残念…
彼はその後も泰時の盟友として
活躍していく)

「ご恩と奉公」

「いざ鎌倉」

というのはこの時代の
主従関係をうまく
表した言葉である。

「鎌倉殿」というのは
武士たちの盟主であって
この頃の主従関係というのは
江戸時代などのような、
いわゆる王と家来のような
絶対的なものではない。

御家人、すなわち
武士たちは鎌倉殿から
領地や官位などを
与えられることにより
もらった分だけの働きを返す、
というドライな関係だった。

会社と社員、くらいの
ものである。

しかし鎌倉幕府そのものが
瓦解するようなことがあっては
自分たちの生活も立ち行かなくなる。

だからこそ鎌倉に
危機が迫ったときには

「いざ!」

と駆けつける。

これが当時の武士であった。

ドラマでは政子の演説を
史実をベースにしながら
もっと踏み込んだものした。

それは盟主である頼朝、
そしてその子らだけではなく
実質的に幕府を切り盛り
してきた義時を、
前面に押し出したことである。



義時が皆に恨まれているのは
私も知っている。

でもあなたたちも、
本当はこの人が私欲のために
ひどいことをしてきたのではなく
みんなのためにやってきたと
わかっているでしょう?

義時はあなたたちのために
尽くしてきたのです。

その義時が朝敵にされました。

あちらはちょっと脅せば
あなたたちが義時の首を
すぐに差し出すと思っていますよ。

坂東武者もナメられたものですね。

馬鹿にするな!!



まさに坂東の女として、
誇り高い演説となり
御家人たちの心を打った。

これは視聴者も同じだ。

我々はあの小四郎…
義時が頼朝が残したものを
守るために苦しみを抱えて
修羅の道を歩んだことを
よく知っている。

政子は尼御台として
優雅に暮らしていたのではなく
息子たちを失っても、
優しさだけは捨てずに
生きてきたことを知っている。

頼朝に学んだこの姉弟が、
どんなつらい道を歩んだのか
我々は一年通して見てきた。

そんな視聴者の感情は、
まさにあの政子の演説を
聴いている御家人たちと
見事にリンクするのだ。

御家人たちも義時や政子が、
苦しんできたことは
知っているのだから。

素晴らしい演出だった。

史実とは少し違っても

「鎌倉殿の義時」

「鎌倉殿の政子」

だからこそ胸を打つ
演説内容になっていた。


史実とまったく同じものを
演じるだけなのであれば
そもそもドラマを観る
必要がない。

ドラマを観てきた人達への
ひとつの答えとしての
集大成であったからこそ
あの演説は素晴らしかった。

北条政子の演説というのは
もっとも注目が集まる
ドラマの見せ場のひとつであり
物語のクライマックスだ。

ここをドラマならではの
アレンジをくわえながら
オリジナリティあふれる
ものにしたことによって、
かえって言葉に
より説得力を持たせた。

もちろん、批判されるべきではない。

むしろ、拍手しかない。



坂東武者の世を作る、
その頂に北条が立つ。

まるで取り憑かれたかのように
義時にのしかかっていた
兄、宗時の夢ははからずも
その義時を救うためにこそ
御家人たちが立つ、
という形で叶えられた。

これがドラマとしての
ひとつの答えだろう。


史実では鎌倉方の軍勢は
19万であったと言われている。

その19万もの軍勢は
上皇軍…すなわち官軍を
さんざんに打ち破った。

いわゆる「朝敵」とされた側に
これだけの武士たちが集い、
勝利を収めるというのは
後にも先にもなかなか
聞いたことがない。

これを源氏の旗の元、
ではなくて頼朝の妻である
政子の主導のもとに

「恩に報いよ」

と、実現したのだから、
とんでもないことである。

もちろん中には情よりも
鎌倉のほうが有利そうだ、と
打算的に加勢した者も
多いはずではあるが
その口火を切ったのは
紛れもなく政子の言葉である。

後世、悪女とされることが
多い政子なのだが、
そこには誰もなし得ぬことを
成した政子への
人々の「恐れ」もあると共に
「畏れ」があったのかもしれない。


*文中「史実」と書いている部分は、
あくまで吾妻鏡を「史実とするなら」
程度の意味であり、
吾妻鏡そのものが創作と
思われることも書かれているため
完全な史実ではありません。

ご注意下さい。