
麒麟がくるの明智光秀は
天海だった!?
と、放送終了後も
盛り上がっておりますが、
そもそも天海って誰ぞや?
という人も多いと思います。
南光坊天海。
家康の側近として
朝廷との交渉などの
政務に携わり、
大坂城攻めで
豊臣を滅ぼすきっかけと
なった方広寺鐘銘事件でも
深く関わった一人と
されている。
方広寺鐘銘事件とは
豊臣秀頼が方広寺のために
鋳造した鐘に刻まれた
「国家安康」
「君臣豊楽」
という文字が、
「家康」
の字を断裂させながら
豊臣は君として
楽しんでいると読める、
として徳川が怒った、
という事件。
まぁ、イチャモンである。
もはやクレーマーだ。
イチャモンであるのだが
徳川からしてみれば、
このようなものでも
豊臣に難癖をつける
最高のチャンスであり、
これがきっかけに
両者の緊張状態は
一気に加速。
ついには大坂の陣で
豊臣が滅ぶ要因と
なってしまった。
それに関与していたのが
天海であると言われている。
天海の仕事は、
家康の相談役、
ブレーンの一人。
もちろんライバルである
豊臣家に対してどうやって
相手の非を見つけ
いくさの口実を作るかも
大事な役割であった。
この時代
「大義名分」
というのは非常に
大事であって、
相手に非もないのに
いくさはできない。
が、それが子供じみた
レベルであろうとも、
勝ってしまえば、
歴史は勝者が作るもの
でもあった。
だからいくさの口実は、
とても大切な要素であり
これを天海が仕掛けたなら
家康にとっては、
天下を変えるための
非常に大きな一手であり
天海の功績は大きい。
また、内政についても
江戸の街作りに対して
陰陽道や風水に基づいた
設計を行っており
現在でも東京が
霊的な力によって守られた
街であると語られるのは
その影響が大きく残っている。
家康が亡くなったあとも
天海は徳川政権で重用され、
家康の死後の名前、
神号を「東照大権現」としたのも
天海であると言われる。
107歳で亡くなったと
伝わっているが、
これは現代でもかなりの
長寿になるわけだが、
人間五十年と言われた
当時においては、
もはや仙人の部類と
されてもおかしくない、
そうとうな寿命の
長さであった。
実際のところは、
天海の前半生が
そもそも謎に包まれており
生年が不明であるため、
本当に107歳だったのかは
定かではないのだが…
珍しいほどの
長寿であったことは
間違いないと思われる。
その天海であるが、
なぜ明智光秀と
同一人物である、
と噂されているのか?
かたや織田信長の家臣で、
主君を討った美濃出身の武士。
徳川家康に仕えていた
僧侶・天海とは一見、
何の関係もないように
思われる。
そもそも明智光秀は
本能寺のあと、
山崎の合戦で破れて
落ち武者狩りにあい、
命を落としたというのが
定説でもあるのだが…
これに関しては、
明智光秀生存説、
というもの自体が
古くから存在したことが
ひとつの事実ではある。
例えば光秀を殺した、
とされる農民に関して
これは秀吉からしてみたら
よほどの功績にあたると
思うのだが、
討った者の名が伝わっていない。
また、比叡山に寄進された
石灯籠の中に光秀が
寄進したと伝わるものが
あるのだが、
それが寄進された日付が
山崎の合戦よりも
ずっと後になっている。
つまり、生き延びて
寄進した可能性も
否定できない。
英雄が、どこかで
生きているのでは?
という説に関しては、
比較的よく語られる
話でもあって、
源義経や真田幸村、
豊臣秀頼にもその類の
逸話は残っている。
本能寺で討たれたはずの
信長ですら生存説は
いくらか語られていたりも
するものだ。
つまり明智光秀が
生き延びたという話が
あることは、
当然であるとも言える。
信憑性という意味では
苦しいものがあるのも
事実ではあるけれど、
光秀にもその生存説は
存在していて、
それを裏付けてくれそうな
伝承という意味では、
意外と他の武将に比べると
石灯籠の件のように
具体的な証拠も
多少あるということ。
でも天海とは関係ないよね?
それがまたそうでもなく…
例えばその石灯籠に
直筆で書かれた筆跡が、
天海のものと似ていると
言われている。
筆跡鑑定をした方によると、
これは同一人物か、
よほどそれに近い人物でないと
そこまで似ることは
珍しいとされている。
また、日光にある
明智平と呼ばれる区域に
関しては天海が
名付けた場所であり、
なぜそのような地名を
付けるのか尋ねられると
「明智の名を残すため」
と答えたと伝わっている。
また、東照宮の中に
徳川の家紋・葵ではなく
明智の家紋でもある
桔梗が使われているとも
されている。
これについては、
桔梗に似ているだけで
木瓜紋ではないか?と
いう指摘もあり、
見る人の印象によっても
変わってくると思うが。
3代将軍、徳川家光の乳母を
務めた春日局。
実はこの人、
明智光秀の重臣であった
斎藤利三の娘でもある。
その春日局が、
天海に初めて会った際、
「お久しぶりです」
と挨拶をしたと言われる。
また、家康自身も
天海と初めて会ったはずが
4時間も話し込んでいた、
というエピソードも
彼らが旧知の仲だったのでは?
と噂される要因の
ひとつでもある。
天海の出身は、
東北の蘆名氏であるとは
言われてはいるものの、
それも確証がなく
具体的にどこで生まれ、
どう過ごしたのかという
部分に関して、
徳川家で重責を担った
人物のわりには、
ほとんど記録がない。
麒麟がくる最終回で、
実は十兵衛の背後には
巨大な三日月を描いた
掛け軸が飾られていた。
また、家康配下の菊丸に
変を起こすことを伝え
家康を逃がすように
頼むシーンでも
背後に三日月が浮かんでいる。
これは普通に見ていると
単に綺麗な映像、
というだけに感じてしまうが、
実は天海が使ったとされる兜が
この巨大な三日月の飾りが
ついたものなのである。
おまけに前立てには
「麒麟」
である。
天海を象徴するのは
麒麟と三日月。
ここはもう、
演出としては
強烈に後の天海説を
意識したものと思う。
明智光秀と、
南光坊天海は同一人物なのか?
ここまで述べてきたように、
例えばそれを匂わせる
エピソードがいくつかある
ことは事実だ。
源義経がチンギス・ハーンに
なったとする説などに
比べてみれば、
絶対にないとは言い切れない、
くらいには夢はある。
が、史実として
そうであるとまでするのは、
よほど新しい証拠でも
出てこない限りは
苦しいのも現実だろう。
あくまで夢があって
いいね、という話。
しかし、ドラマにおいては
面白い解釈であり
充分に賛同できる。
あの十兵衛が信長を
失ったあと、
後事を託せる武将だと
見込んでいた家康と再会し、
天海と名を変えて
今度は家康を支える。
そして、あの小憎らしい
秀吉が築いた豊臣政権を、
方広寺事件で難癖つけて、
ひっくり返してしまう。
なかなか痛快である。
そんな十兵衛の話を、
またドラマで観てみたい。
麒麟がくるは、
そうした余韻を残して
希望のあるラストを描いた
傑作ということだ。