
明智光秀は死なせずに、
生き残ったことにして
物語を終えてほしい、
と再三ブログで書いてきた。
それは個人的な願望で
あったのだが、
まさか本当にそれを
大河ドラマでやってくれるとは
思っていなかった。
なぜならば、
それは史実を軽視した
考え方でもあって、
必ずや視聴者の中には
反発を覚える人も
いるだろうと思ったからだ。
が、思いきったことに
麒麟がくるは本当に
それをやった。
それどころか、
主役である十兵衛役の
長谷川博己さん自身が、
十兵衛は生き延びたで
あろうことや、
江戸幕府を作った?
ということにまで
言及している。
異例中の異例。
そしてそれと同時に、
あの最終回に関して
ネットでは大絶賛されており
視聴率も18%をマークした。
多くの人達が、
十兵衛が生き残ることを
どこかで、望んでいたし
この物語はそういう
物語なんだと、
違和感なく受け入れたと
いうことだ。
それでいいのだ。
この物語は
史実だけを描いた
ドキュメンタリーではない。
あくまでこれはドラマであって、
大河ドラマといえど
むしろ、であるからこそ
ロマンにあふれた
夢のある話であってもいい。
かつて本当にあの時代を生きた、
明智光秀、織田信長。
二人に敬意を払うからこそ、
そこにあったかもしれない
友情や愛憎を想像し、
それをどうやって
視聴者に届けるのか。
それこそが大事な要素でもある。
光秀が目指していたものは
なんなのか、
そこには絶望しかなかったのか、
あるいは希望があったのか。
表現方法はさまざまな
形があって良いはず。
大河ドラマの視聴者も、
今では若い人も増えて
昔とは違うファン層を
確立している。
あえて史実とは違う
逸話の類を物語の
芯においたとしても、
これはそういうドラマ
なのだと、
柔軟に受け入れて
楽しんでくれる土壌が、
今では出来ているんだ。
こうしたノリは、
真田丸や直虎のときにも
見られたけれども、
視聴者はドラマを
ドラマとして
楽しむことを覚えた。
そもそも、
史実というもの自体が
勝った者たちが残した、
勝った側から見た真実で、
本当の史実なんてものは
そこにいた人にしか
わからないこと。
このドラマの光秀は、
自分も死ぬ覚悟でもって
大切な信長を討ち、
そして結果的には
奇跡的に生き延びた
(であろう)。
だからこそ、
大きな感動を呼んだ。
製作者の英断に
拍手を送りたい。