■人間同士だから■
昨日も少し書いたのですが
言葉というものは、
ときに人を思った以上に
傷つけてしまいます。
実はそういうことの結果として
一人の仲間が去ろうとしています。
僕にとってはグループホームに
来る前の部署でも長年一緒に
働いていたとても大事な仲間。
仕事云々ということ以前に
たくさんの苦楽を共にしたからこそ
僕という個人のことを
たくさん知ってくれている仲間です。
性格、家庭のこと、
いろんなことを含めて。
だからこそ多くを語らなくても
伝えることができる、
そんな信頼が置ける相手でした。
介護も上手な人です。
10年近くやっている
ベテランでもありますからね。
認知症介護というのは
本当に色々なつらいことも
あるのですが、
いつでもそれにくじけることなく
頑張ってくれていました。
言葉の力は本当に
怖いものです。
認知症介護に不慣れな
新人さんが利用者さんの
言葉に苦しんで辞めてしまうなら
まだいい。
ベテランで百戦錬磨の人でも
ある日突然それに耐えられなくなる、
そんな現実があります。
もちろん日々の細かいことが
つもり積もってそうなる、
あるいは仕事だけでなく
他の面での負担や不安もあったり
色々とはりつめているものが
何かをきっかけに切れてしまう、
人間だからこそそういうことは
やはり起こり得るし、
防ぐということも本当に難しいのです。
僕はこのことでもちろん
利用者さんを責めたりはしません。
しかし現実として、
もっとも信頼していたというか
利用者さんのことで悩んでも
一番気軽に相談できる
貴重な片腕はもがれたと思います。
その点でのダメージは
計り知れないほど大きく、
時間がたつにつれて
これから先何度もそれを
実感させられる瞬間に
出会うのでしょう。
しかしもっと近い現実は
抜ける人がいれば
そのぶんのシフトも埋めねば
なりません。
これはたぶん、肉体的には
こたえるだろうなぁと
思います。
誰一人利用者さんを
悪くしようと思って
介護をしているスタッフは
いません。
しかし誰もが強いわけではなく、
とても強い人でも一瞬入った
亀裂がすべてを壊してしまう
こともあります。
例えば心の中に我慢のツボが
あるとして、
この仕事をしている人は
おそらく普通の人よりも
とても深いツボを持っていると
思います。
でも底なしのツボなどありませんし
割れないツボもありません。
これが介護の仕事の現実です。
では僕はどうなんでしょうね。
自分自身ではおそらく
利用者さんの言葉だけでは
壊れることはないと思ってます。
なぜかというとそういう、
傷つくというような感じ方をする
気持ち自体はマヒしてるというか
希望を持つ→挫折する、
というのはだいぶまえに
通り越していて、
なんだか別のステージに
いる気がしています。
以前にも書いたことがありますが
実際のところは僕は介護が
好きなわけではありません。
だってそうでしょう?
ここまで人が傷つく可能性が
あることを好きでいられるほうが
不思議なのです。
でも僕はそういうことを
通して自分の人生の在り方を
学んでいるのです。
利用者さんが全身で見せる
一人の人間としての最期の姿。
そこから発せられる
ストレートな言葉。
認知症のせいで他者へのバリアを
一切失った生の人間そのものの
生きる姿というのは本当に
苦しみとか悲しみ、他者への怒り、
人間のイヤな部分に満ちています。
目を覆いたくなるようなこと、
耳を塞ぎたくなるような言葉。
決して美しくもなんともない、
よくある認知症の感動的ドラマなど
嘘臭くてまったく話にならないような
暗くてドロドロした人間の本質が
そこにはたくさん存在します。
それを見る、受け止める。
受け入れる。
いつ自分がそうなるかわからないから。
相手も自分も生きていて、
どっちが逆の立場にいても
おかしくないから。
家族には受け止められず
僕にはそれができるから、
あるいは誰かが最後の一人に
なってもやりとげなきゃならないから。
そこに人間がいて、
僕も人間だから。
優しいわけではありませんよ。
僕は優しさで介護はしてません。
むしろ優しさにみちあふれた人ほど
挫折してしまうんです…。
僕は優しくも厳しくもなく、
ただ淡々とそれを見て
無駄であっても全力を
尽くしています。
そういう領域に立てば、
また認知症というものの見え方も
違ってくる部分もあるのですが
どんなにベテランでも
多くの人はそういうふうには
なれないと思います。
それも人間だからでしょう。
傷ついたら悲しいのは
当たり前なので恥じることもないし
つらすぎて続けられなくなるのも
負けではありません。
人間同士がつながりあうことは
本当に難しいのだと感じます。