剣の道から考える戦わずして勝つということ | NobunagAのブログ

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◆剣の道から考える戦わずして勝つということ◆
 
昨日書いたように、
日本が戦力を持つということ自体には、
反対ではない。
 
現実に自衛隊という戦力を有しているのだし、
それなのに撃たれても撃ち返せないとか、
憲法上グレーゾーンの存在だというのでは、
自衛隊に所属している人たちが、
本当に必要なときに胸を張って戦うことができない。
 
弱いものが何の後ろ盾もないのにキャンキャン吠えても、
相手は何も感じない。
強いものであるからこそ、
相手も一目置く。
 
では強さとは何なのだろう。
 
子供の頃、剣道をしていた。
 
そんなときによく先生から教わっていたのは、
 
「剣道は相手を倒すためのものではなく、
自分を高めるためのものである」
 
という理念だ。
 
いやいや、こんなの理想でしょ。
現実に、
剣道はともかく剣術自体は、
相手を殺すために発案されたものでしょ。
 
そういう意見もあながち間違っていない。
 
しかし入口はそうだとしても、
本当に高みに至った人は、
違う答えにたどりついているんじゃないだろうか。
 
たとえば宮本武蔵。
 
「勝てる相手としか戦わない」
 
という言葉が知られている。
 
これは間違った解釈をすると、
 
「弱い相手とだけ戦え」
 
とも読めてしまうが、
真意は違うだろう。
 
「強くもないのに強い相手と戦うな」
 
といういましめだと思う。
 
そして言いかえれば、
自分が強ければすべての相手に勝てるという意味でもある。
 
しかしそもそも必ず勝てるのなら、
初めから戦う意味もない。
その境地にたどりつくと理想の姿は
 
「戦わずして勝つ」
 
ということになる。
 
これは有名な孫子も残している言葉なんだけど、
戦う前から相手に勝っていたら、
もはや戦うこと自体が不要ということだ。
 
しかしそれなら強くなる意味などない、
最初から戦わなければいいだけじゃんと考える人もいるだろうが、
それもまた違う。
弱ければ殺される、ただそれだけで、
舞台に上がることすらできない。
 
弱ければ生きていけないから、
必死で強くなった。
 
しかし強くなったら、
戦う相手も喧嘩を売ってくる相手もいなくなり、
戦う必要そのものがなくなった。
 
その姿こそが本当に強い者の姿だろうと思う。
 
この辺の考え方は難しくてわからないという人もいると思うが、
井上武彦氏が宮本武蔵を題材にして描いているマンガ、
「バガボンド」を読むとわかりやすいかもしれない。
 
「バガボンド」における武蔵は、
天下無双の強さのみを追い求める悪鬼のような若者であったが、
多くの相手と戦っていく中で、
少しずつ本当の天下無双とは何かに気づき始める。
 
その過程を緻密に、
これだけ丁寧に書いた作品は、
どんな剣豪小説、映画にもない。
マンガだからとバカにしてはいけない。
 
本当に強くなったものの行きつく先にあるのが、
無刀という姿だと思う。
 
残念ながら今の日本には、
強さはない。
 
自分自身も含めて国民は平和になれきっているし、
政治家は自分の人気取りばかり考えている。
 
強くもないのに虚勢ばかり張り、
相手を威嚇してばかりいたら、
いつか相手にかみ殺される。
 
相手を倒すためではなく、
自身を守るための戦力、
強いからこそ相手を倒さなくて済むための戦力を。
 
力はなくていいわけじゃない。
 
使い方を誤ってはいけないということ。
 
昔の戦争から我々が学ぶべきことは、
戦争という悲劇を繰り返さないこと、
命の尊さを忘れぬこと。
 
自分の子供たちが平和に過ごせる日本であってほしい。
 
それにはまったく異論がない。
俺なんか本当に自分の子供が大好きで、
彼が戦争で命を落とすようなことは絶対にイヤだ。
 
平和であればそれにこしたことはない。
 
でもその平和は声高に武力放棄のみを叫び、
9条にすがりつき、
穴だらけのアメリカの傘の下にいて、
穴の隙間から爆弾が落ちるのを待つだけでは成しえないのではないか。
 
ましてや安倍総理などはその穴だらけの傘から、
時折、顔を出してはワンワン、キャンキャン相手を挑発、
やばくなると引っこんで、
アメリカ様にTPPという美味しい餌を提供して、
だから守ってねと愛想を振りまくのだから始末が悪い。
 
アメリカにとってはペットはペットでしかないのに。
 
矛盾しているようだが、
戦わずして勝つためにこそ自身の力が必要。