【信長の誕生】天文3(1534)年5月(1歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

 天文3(1534)年5月11日(12日、28日説あり)、信長は尾張勝幡城で織田信秀の三男として誕生した。幼名は吉法師という。生母は海東郡土田郷(どたごう)を支配する土田下総(しもつけの)守(かみ)政久の女(むすめ)である土田(どた)御前(ごぜん)である。他に弟が10人ほどいた。信長には庶兄として織田(三郎五郎)信広と織田(安房守)秀俊がいたが、正室の子ではなかったため、当初から信長が跡取りとして育てられたようである。しかも秀俊は信長の弟として扱われた。信長の同母弟として信勝がいるが、彼は後に信長に謀反し、信長に暗殺されることになる。なお、同じ年に細川藤孝や蒲生賢秀が生まれている。
 吉法師は誕生後、すぐに乳母のもとで養育されることになった。非常に疳が強く、乳母の乳首を噛みちぎるため、何人もの乳母が交代したという。ところが池田恒利の妻(養徳院)を乳母としたところ、吉法師はその乳首だけは不思議と噛み破らなかったという。養徳院は後に大御乳さまと敬称された。

 

<勝幡城>


 信長の生まれた勝幡城は、稲沢市平和町城之内93にある。三宅川と日光川の合流地点で、川を堀に見立てた堅固な城であった。また当時の川は物流路でもあり、三宅川は上って行くと稲沢の国府宮につながっている。さらに勝幡城は当時の一大水運貿易都市である津島を押さえる位置にあった。津島では現在も天王祭りが行われているが、信長や妹のお市の方も、天王川に架けられた天王橋から天王祭りを見物したと言われている。
 信長は初期の戦闘では馬廻(親衛隊)700~800を率いて戦うことになるが、その多くは、ここ津島の津島衆が占めていた。桶狭間の戦いで今川義元に一番槍をつけた服部小平太は四家七党と呼ばれた津島衆のうち、七党のひとつである服部氏の出である。

 

GoogleMapより