【信長誕生以前の尾張国】 | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

画:筆者

 

 信長誕生以前の尾張は、守護の斯波氏が清須に在城しており、守護代の大和守織田氏が同じく清須にいて守護を補佐していた。しかし守護の斯波氏は政治の実権を守護代の大和守織田氏に奪われていた。そして尾張にはもう一つの守護代として、岩倉に伊勢守織田氏がいた。尾張は岩倉の伊勢守織田氏が丹羽郡・葉栗郡・春日井郡・中島郡の上四郡を、清須の大和守織田家が海東郡・海西郡・愛智郡・知多郡の下四郡を支配する並立体制であった。岩倉の伊勢守織田氏が織田氏の本家筋だったようであるが、この頃は勢力を弱め、守護の斯波氏は清須で大和守織田氏が補佐する形になっていた。


 しかしその大和守織田家でも、次第に庶流の清須三奉行が力を持つようになり、そのうちの一人である織田信定が勝幡城を拠点に置いて台頭した。信定は信長の祖父に当たる。織田信定は官途名の弾(だん)正忠(じょうのじょう)を名乗ったことから、この家系を便宜上、織田弾(だん)正忠(じょうのじょう)家と呼ぶことにする。

 

<勝幡城>

 

 信定は大永年(1521-1528)中に津島に侵攻した。津島は全国に3千社とも言われる「天王信仰」の総本山・牛頭(ごず)天王社(てんのうしゃ)(現在の津島神社)の門前町で、天王川を通じた一大水運貿易都市である。現在、津島神社の南250メートルの位置に天王川公園がある。当時、ここには川幅300メートルの海へ通じる大きな天王川があり、津島は川湊だったのだが、江戸時代に埋め立てられて、現在は池になっている。

 

<天王川公園>

 

 津島には四家七党と呼ばれた津島衆がおり、豊かな経済力を背景に勢力を誇っていた。「四家」は大橋・岡本・恒川・山川の4氏で、「七党」は堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村の7氏を指し、両者あわせて四家七党と呼んだ。
 抗争の末、信定は大永4(1524)年に娘を津島衆の四家の筆頭である大橋氏に嫁すことで和睦し、次第に津島を領有化していった。信定は津島港と門前町の商業権を握ったことで、弾正忠家が躍進する礎を築いた。


 子の信秀の代には当時の経済流通拠点であった熱田をも支配下に組み込み、主家の大和守織田家を凌ぐようになった。信秀は天文元(1532)年に守護代の織田達(みち)勝(かつ)及び清須三奉行の一人である織田藤左衛門と争ったが、後に和睦した。

 


 この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌天文2(1533)年7月に京都から蹴鞠の宗家飛(あ)鳥井(すかい)雅(まさ)綱(つな)を招き、山科(やましな)言(とき)継(つぐ)も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たちと数百人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清須城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した。

 

<織田信秀>画:筆者


 信秀は守護の斯波氏や守護代の大和守織田氏を差し置いて尾張の兵を動員することができ、美濃の斎藤家や三河の松平家、駿河・遠江の今川家と争うほどの実力者だった。この兵力動員には守護の斯波義(よし)統(むね)の力添えがあった。斯波義統は、守護代の織田達(みち)勝(かつ)から傀儡として扱われる事を嫌い、織田信秀の勢力伸張に協力したのである。