シンポジウム《イタリアと日本、初めての出会い》 5月18日 東京イタリア文化会館
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東京国立博物館にて開催されている
「伊東マンショの肖像 展」
天正遣欧使節団 伊東マンショの肖像画が東京国立博物館で公開されるのに合わせたイタリア文化会館で行われたシンポジウムは、
第一部 〔天正遣欧少年使節団の経緯と歴史的背景〕
第二部 〔伊東マンショ肖像画の美術史的考察〕
に分けて進められ、かなり本格的なものでした!
第一部
高祖 敏明氏(上智大学理事長)
天正遣欧少年使節団の歴史的位置を考える
「キリスト教布教が目的か民間大使的な役割か」
シルヴィオ・ヴィータ(京都外国語大学教授)
まず日本人がヨーロッパを目指した一番最初は、天正遣欧少年使節団に遡る事31年。宣教師として1549年初めて来日したフランシスコ・ザビエルが、1551年鹿児島のベルナルド、山口のマテオ(ザビエルは日本の素晴らしさをヨーロッパに伝えるため仏教の僧侶も同伴したかったが叶わず)を連れて豊後を出発しポルトガル、ローマを目指すが二人共客死してしまい、帰国してヨーロッパでの見聞を伝えることは叶わなかった。(この旅の目的はお互いの異文化理解と国際交流だった。)
そして、天正遣欧少年使節団は1582年、有馬のセミナリヨ(イエズス会によって日本に設置された修道士になるための初等教育機関で、安土城下や九州の有馬などに設立された。ラテン語・音楽・絵画などを教えた)で学んでいた伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルティノ、中浦ジュリアンら4名の少年が、キリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された。イエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案したもの。1590年に全員帰国。 同行したのはメスキータ、ロヨラ、サンチェスや、ドラード、アウグスティーノ(印刷術取得のため)ら計10名。マカオ、ゴアを経てリスボンへ到着。船中も勉強を怠らず精進した。
"訓令書"によると目的は
①ヨーロッパ人に優れた日本の少年達を見せ、日本への関心を促し、宣教師の募集や、宣教活動資金を得るため。
②少年使節団にキリスト教の栄光、偉大さを示し帰国後それらを日本に伝えて貰うため。
各経由地では大歓迎された模様。
エボラにて マンショ、ミゲル見事なオルガン演奏を披露。
トレド にて ジュネリオ・トリアーノによる天体の運行から発明された時計細工や、ピストンで水を汲み上げる大掛かりな水道工事を見学。
ピサにて マンショ舞踏会で王妃の相手を見事に務める。などなど。
ヴィチェンツァにて オリンピア劇場に、4人の少年の像が残されている。
トスカーナ大公国でのメディチ家による歓待。
ローマにて 教皇グレゴリウス13世に謁見し歓迎される。(織田信長からの「安土城」屏風絵(狩野永徳)を献上。ただし現在行方不明。)「使節団謁見図」が残されている。そしてなんと教皇交代にぶつかり、新教皇シクストゥス5世の戴冠にも立ち会う。
イタリアでの彼らを記した「天正遣欧使節記」他、沢山の記述が残されており、初めて会う日本人に対するイタリア人の新鮮な驚きが記録されている。使節団は印刷機を購入して日本に持ち帰り「キリシタン版」と呼ばれる多くの活字本が発行されるようになった。また、道中クラヴィチェンバロを贈られ、帰国後豊臣秀吉の前で演奏した。
歴史的に重要なのは、彼らの出発後、日本でのキリスト教の位置が激変。
《出発前 》 織田信長はキリスト教を甘く見て容認。群雄割拠の時代でもあり九州の大名も頑張っていた。長崎、堺は戦国大名の貿易港として栄えていた。
《帰国後 》 秀吉が天下統一。貿易はするがキリスト教の植民地支配を恐れ禁止。続く徳川家康も禁止令。
日本でのキリスト教の位置の変化の為、帰国路マカオで1年10ヶ月足止めされ、そこで書かれた問答本が残されている。(千々石ミゲルが語る形で、彼らの日記、メモを基に)後にコレジヨでの教科書になるようラテン語で書かれた。
帰国後は、イタリア中心に描かれた世界地図を日本中心に描き換えたものを作る。他、地図屏風30点以上。(小浜市発光寺、神戸香雪美術館、出光美術館 など)
しかし、日本でのキリスト教弾圧の為、帰国後4人はイエズス会員にはなったものの脚取りは・・・
伊東マンショ 自害 千々石ミゲル 宗教棄てる
原マルティノ マカオに戻る 中浦ジュリアン 迫害の中で布教
第二部
ジャン・ジャコモ・トリヴルツィオ
(伊東マンショ肖像画発見、所蔵のトリヴルツィオ財団会長)
セルジョ・マリネッリ
(ヴェネツィア大学教授 ドメニコ・ティントレットと伊東マンショの肖像画を美術史家の観点から)
トリヴルツィオ家はロンバルディア地方で15世紀から続く家系。アンブロジアーナ図書館設立。クリスティーナ・トリヴルツィオ(1808~1871)がポルディ・ペッツォーリ美術館設立。2014年ミラノで伊東マンショの肖像画を発見。
1585年、天正遣欧少年使節団がヴェネツィアに10日間滞在した時、歓待したニコロ・ダ・ポンテ・ドージェのヴェネツィア共和国元老院がヤコポ・ティントレットに使節の肖像画を発注。
当時、元老院「4つの扉の間」(控えの間)は1577年焼失して新しい絵画が必要。ヴェネツィア共和国の力を示すため、世界各国の使節団の絵画を(誇張を含め)飾りたい。(1599年支払い「ニュルンベルクからの外交団」ヴェロネーゼ1588年作。1602年「ペルシャからの使節団」など)ビザンツィン風の絵画。
天正遣欧少年使節団の絵も、大きな肖像画としてヤコポ・ティントレットが制作を始めたが、1598年ヴェネツィア共和国とローマ教皇庁(イエズス会は教皇庁の共犯者との見解)の関係が悪化し、イエズス会は追放される←絵の規模は縮小され、肖像画家として有能な息子ドメニコ・ティントレットの手で単独作品として完成。
シチリア出身の宣教師ジョヴァンニ・バティスタ・シドッチ(1667~1714)が携行したカルロ・ドルチ(1616~1687)作とみられる。キリスト教禁止令が制定された江戸時代、新井白石に尋問され、江戸・小石川のキリシタン屋敷に幽閉された。シドッチと白石の問答からは文化的背景、立場の異なる二人が言葉の壁を超えてお互いを敬い合う姿が浮かびあがって来る。
尚、天正遣欧少年使節団の持ち帰ったグーテンベルク印刷機(複製)、竹パイプのパイプオルガン、ヴァージナルは天草市の天草コレジヨ館に展示されています。