使徒パウロの映画の場面が端々思い出される中、
目が覚める。
5時過ぎ。
キリスト者の末路、結論ともいうべきものがそこにあるように、
しきりに思えてくる。
そこに、焦点を合わせると、
今までの自分の生き様が、何だか滑稽にも思えてくる。
あまりに薄っぺらさに、言葉を失う。
殉教を前にしたパウロや捕らえられたクリスチャンたちは、
獄吏長の娘の為に一晩祈り続け、
その獄吏長の指示により、翌朝、殉教の場へと出て行く。
それも、屠られてゆく子羊のように。
パウロは、殉教間際まで獄吏長を伝道し、
時が来て、静かに、処刑台に自分の首を横たえる。
この朝もまた、
「私にとって、生きるはキリスト、死ぬるもまた益なり」
のみ言葉が迫ってくる。