この映画は、殉教を前にして書簡を書いた使徒パウロを描いている。
さいごに、
「この映画を今苦しみの中で信じ続けている
全ての人たちにささげる」
ファイナルメッセージ心に焼き付けられる。
人はあのような苦しみの中でも、
なおも神を信じ続けることができるのだろうか。
人は、どこまで、神様の愛を信じ続けることができるのだろうか。
牢獄にいた信徒たちが、
処刑まぎわ、獄吏長の娘の回復のために祈り、
結果、獄吏長の娘の命は、ギリシャ人医師のルカの手術を通して、
助かったものの、
彼らはその恩恵を受けることもなく、
翌日、公開処刑場に入ってゆく姿が、
まるで、天国にゆくかのようにも見えた。
パウロは自分の処刑間際に獄吏長に伝道しているが、
決して、信じることを押し付けない。
時がくれば、神が信じる心を与えられる、
と、ただ委ねるだけだった。
そして、パウロはネロの放火の罪を被らされて、
処刑になる。
処刑のシーンはイスラエルの野原で、先に処刑された人たちとの再会のシーンに変わり、
イスラエルの野原と思えるところで、福音書に描かれているお姿のイエス・キリストが、
パウロと再会している彼らに近づいてこらているところでエピローグとなり、
ファイナルメッセージとなる。
感動だったのは、
このように、キリスト者を扱うローマを恨ませようと心に働きかける思いに対して、
パウロは、かつて、迫害者だった時の自分の行いをいつも心に抱いて離れず、
「私は、走るべき行程を走り終え、主イエスから賜った恵みの福音を伝える任務を果たし得さえしたら、この命は自分にとって、少しも惜しいとは思わない」
と心で証する。
このパウロの主イエスへの献身の思いは、
そのまま、
「生きることはキリスト、死ぬるもまた益なり」
と、その生き様を観るものの心にみことばが迫ってくる。
剣を手にして、命がけでパウロとルカを助けに来た人たちに、
「本当に神がそうされたのか」
と、ここまで来ても、決して自分の判断で動きだそうとせず、
死が迫ってくる獄中で、神のみ旨のみを問う使徒パウロ。
私たちは、いつでも、どこでも、神様以上の者ではないのだ。
これは、人が作った映画でしかないと言えばそれまでだが、
ローマにおける皇帝ネロの迫害下における
使徒パウロの処刑を再現しようとして制作されたもので、
単なる想像上の作品とは言えない。
それよりか、
現実は、もっと、当時の迫害は凄まじかったかもしれないのだ。