来週はアイスショー、PIWがあるのですね。昌磨君は何を滑るのでしょうか?

 

備忘録となっているこの日記です。いってみましょう。

 

 

 

昨日の土曜日。私は日本詩人クラブの三賞贈呈式に出席しました。場所は学士会館。記念パーティーにも出席しました。主人も同伴してくれました。第57回日本詩人クラブ賞は詩集『ぢべたくちべた』の松岡政則氏、第34回日本詩人クラブ新人賞は詩集『影』の井嶋りゅう氏、第24回日本詩人クラブ詩界賞(特別賞)は詩書『現代詩ラ・メールがあった頃』の棚沢永子氏でした。おめでとうございます!更なるご活躍を祈念致します!そして、準備のスタッフの皆様もご苦労様でした!

 

 

今日の日曜日。私は美容院に行きました。髪の毛を染めて頂きました。その後で喫茶「風味」に寄ってランチ。クリームシチューセットとアイスレモンティーを頂きました。帰ってきてからは、色々な雑務をこなしました。

 

 

 

さて私は関口隆雄様が御詩集「忘れられた骨」(土曜美術社出版販売)をお送りくださったので、読みました。

 

ここでは、6篇、ご紹介させて頂きたいと思います。

 

「忘れられた骨」

    ー子供の頃、押し入れの鴨居に若い兵士の写真が掛けてあった

 

「ばあちゃん

 俺が生きて帰って来るまで

 元気でいてくれよ」

 

祖母に言い残して

伯父 宗之介は

昭和十九年 夏

出征した

 

一か月余りたって

伯父から一枚の葉書が届いた

葉書はところどころ

墨で塗りつぶされていた

父が布に水を含ませて葉書を洗った

「フィリピン マニラ」の文字が浮かんだ

伯父の最後の便りだった

 

昭和二十年 八月十五日

戦争は終わった

 

伯父は帰ってこなかった

母が近所の拝みやばあさんに

息子の生死を尋ねた

宗之介さんは船といっしょに

海に沈んだと告げられた

 

真夜中

家の前の

旧甲州街道を歩く

靴音が聞こえてくると

母は目をさました

息子が帰って来たのだと思い

 

関口家の墓石に

伯父の戒名が刻まれていた

栄光院殉徳宗道居士 宗之介

昭和二十年六月十日 享年 二十三才

 

ばあちゃんは骨になって

いまも墓の中で待っている

 

伯父の骨よ

 

 

「漂流」

  ー1944年(昭和19年)12月2日 マニラ湾出港

 

夜明け前の

南シナ海をすすむ

タンカー船 八紘丸

 

辺りが

明るくなってきた

 

 ドッカーン ズッシーン!

 

突然

大きな金属音

眠りは破られた

魚雷が命中したのだ

 

重油の漂う海

放り出された

三十数人

人も筏も油まみれで真っ黒

 

 (油が燃えあがるかもしれない)

 

風と波は激しさを増し

筏を一気に十メートル押し上げた

波頭から波間を見下ろす

 

 (まるで 谷底を覗いているようだ)

 

瞬間

谷底めがけて吸い込まれていく

 

風に流され

しぶきにぬれて

ひとり またひとり

すうっと消えていった

 

 (死んではいけないよ 母の声が聞こえた)

 

太陽の

煌めきが

空と海のはざまに

消えていく

 

波に見え隠れしながら

黒い船が見える

海防艦がぐんぐん迫ってきた

 

筏を取り巻く

黒い浮き玉に見える顔

目だけは開けていた

兵たち 十五人

手を大きく振りながら

「おおーい おおーい」と叫んだ

 

             父の私記「自分史」より

 

「帰って来た男」

     ー1947年(昭和22年)6月2日

 

引き揚げ列車の

窓から眺めた広島は

遠い山々のすそ野まで

瓦礫と土塊に覆われ

赤く焼けただれた鉄骨や

家々の土台だけが残されていた

 

夜明け前 品川駅に着く

電車を乗り変え

座席の前に立つと

乗客はそそくさと席をたった

周りの人が

遠ざけているのを感じた

 

大津駅に着き

実家へ

玄関を開けると

家族は朝食を食べていた

振り向いた父も母も

玄関に立っている若い男が

シンガポールから帰ってきた

息子だと信じることができず

茫然としていた

 

男は

獣の目をしていた

 

      父の私記「自分史」より

 

「空っぽの茶碗」

 

脳梗塞を起こし

右半身麻痺

九十歳の父の面会に行くと

看護婦さんから言われた

 

「せきぐちさん 最近

 左手でスプーンをにぎって

 ごはん がむしゃらに 食べるんですよ」

 

(私記の下書きのある場面を思い浮かべていた)

 

ーーもう何日も

  一粒の米さえ食べていなかった

  ・・・・・

  昭和十九年 十一月中旬

  シンガポールをめざして船に乗る

  マニラ停泊中 明け方

  アメリカ軍の爆撃を受けた

  ・・・・・

  船内の仮設の炊事場に行った

  散乱した器具をどかすと

  平窯がでてきた

  雑穀入りの飯

  血の混じった飯が見えた

  T一等兵と二人で

  手を突っ込んでごはんを食べたーー

 

それから

看護婦さんが

小さな声で言った

 

「ごはん 食べ終わっているのに

 スプーンがとまらないので

 とりあげたんです

 

 でも

 せきぐちさんは

 からっぽの茶碗に

 左手を入れて

 ずっと 泣いていました」

 

 

「新しい川」

 

こころざしなかば

二〇一九年 十二月四日

アフガニスタン・ナンガルハル州

ジャララバードを車で移動中 何者かに銃撃された

 

 (なぜ 中村医師は殺されねばならなかったのか)

 

アフガンの服を着て

質素な食事

イスラムの生活習慣を守り

ドクター・サーハブ(お医者さん)と親しまれた*1

 

丸腰で 沙漠を歩き

ショベルカーを操縦

 

アメリカ軍ヘリコプターが 上空を飛び交う

 

村人と汗をながし

用水路を造った

 

ーー「よし 水を流せ」

 

 土のうをはずすと

 堰を切ったように 水があふれ出し

 ゆっくりと 用水路の底をしめらせた

 

 拍手とともに 高らかに

 アッラーフ アクバル(神は偉大なり)の声*2ーー

 

新しい川が生まれた

 

トンボたちが飛んできた

子どもたちが泳いだ

女たちが水汲みにきた

 

乾いた岩山の裾野が

広々と麦に覆われ

黄金色の穂が

軽やかに揺れていた

 

   *1 東京新聞・朝日新聞(2019年 12月5日)の記事より

   *2 『天、共に在り』(中村哲 NHK出版)から

 

「連れ合い」

 

自転車を売って直して

六十年

八十八歳をすぎて

とぼとぼ歩いていた 父

けれど

ひとたび 自転車に乗れば

人が変わる

 

おじさん おばさん かきわけて

いぬ ねこ ありんこ はねとばし

 

やおやに行こうとして 酒屋に行き

うなぎを焼く匂いに ぴたりと止まり

居酒屋を見つけて 中へ入ろうとする

 

父とよく似た自転車

長年連れ添ってきたから

父の気持ちがよくわかる

 

毎日かかさず

十三種類の薬を飲んでいる

と言うのが

父の自慢

 

寒い夜

トイレで倒れ

病院に運ばれて

一年余

 

「そろそろ死にたいね」とつぶやく

父を乗せて

自転車は 天空をサイクリング

あの世へ無事に届けてくれた 

 

 

関口隆雄様、ご恵贈ありがとうございました。

 

「忘れられた骨」 伯父様 宗之介さんも帰ってきたかったでしょうね。靴音が聞こえてくると 母は目をさました 息子が帰って来たのだと思い   ばあちゃんは骨になって いまも墓の中で待っている やるせない気持ちになります。二度とこういうことが起こらないよう祈りたいです。

 

「漂流」 (死んではいけないよ 母の声が聞こえた)  奇跡的に助かって本当に良かったなあと思いました。

 

「帰って来た男」 シンガポールから帰ってきた 息子だと信じることができず  本当に茫然とされたのでしょうね。 男は獣の目をしていた 苦行のような日々だったのでしょうね。無事に生還されて本当に良かったです。

 

「空っぽの茶碗」 お父様は病院で無意識のうちに戦争の頃に戻ってしまうのでしょうか?からっぽの茶碗に 左手を入れて ずっと 泣いていました   私も泣きたくなりました。

 

「新しい川」 中村哲医師の死は本当に残念です。アフガンの為にあれ程尽くしたのに。でも、新しい川は中村医師の名前とともに、現地の住民を潤していくのでしょうね。

 

「連れ合い」 父を乗せて 自転車は 天空をサイクリング あの世へ無事に届けてくれた  ご苦労様でしたと言いたいです。

 

 

ありがとうございました。ますますのご健筆とご活躍をお祈り申し上げます!