今週後半は、梅雨のようなお天気になるということ。前半の陽射しは大切にしなくてはいけませんね。

 

備忘録となっているこの日記です。いってみましょう。

 

昨日の土曜日。主人が所要があって外出したので、私は終日、お店番。黒い帽子のお兄さんが見えました。お店番をしながら、色々な雑務をこなしました。

 

今日の日曜日。私は美容院に行きました。髪の毛を染めて頂きました。その後で、喫茶「風味」に寄ってランチ。トマトクリームシチュウーセットとホッとレモンティーを頂きました。それから、やはり色々な事務仕事をしました。

 

 

 

 

さて私は坂木昌子様が、坂木昌子&酒木裕次郎詩集「この星に平和を」(アオサギ)をお送りくださったので、読みました。

 

ここでは、お二人の詩を合わせて6篇、ご紹介させて頂きたいと思います。

 

「上野公園で」  裕次郎

 

満員の日曜日の公園

人だかりなのに

静まり返った空間

満ち足りた雰囲気

ママー ママー

甲高い叫び声が

いきなり

静かな公園の空気を揺るがす

 

凍りつく現場

ただ事ではない」空気に振動

泣き喚く声が

ひときわ甲高くなってきた

連れの子供たちを遠ざけて

現場に眼を向ける

 

命の限り暴れている男の子

若い父親が持て余している

自分も眼から汗を滴らせて

時折

もう止めないかと

子供の身体を叩いている

 

人混みの中でママが居なくなった

人いきれの中にママが姿を消した

男の子の傍らにママがいない

ママー ママー

と泣き喚いて叫ぶ声が

いつまでも尾を引いている

 

この人混みの中では

捜し出せないだろう

逃げるには

この人混みが

絶好の環境であろう

 

「トンカツ先生」  昌子

 

中学教師若き日のO先生

担任のクラスで

手の付けられない

暴れん坊の男子生徒がいた

反抗心の塊 刃のような目

父親はヤクザ 母親はシャブ中毒

家に彼の居場所がなかった

 

校長も教師仲間も

手をこまねいていた

O先生は決心した

一週間 その暴れん坊を

我が家に預かってみよう

家には自分の子が四人いた

妻に協力を頼むと

快く引き受けてくれた

 

日頃から家庭を中心に

家事 子育てと

懸命に妻に協力していた

担任のどの子も

我が子のように 可愛がっていた

子供が大好きだった

妻もパートで働いていたので大変だった

 

暴れん坊が今 一番食べたいもの

トンカツという

安月給から 思い切って

最高級のトンカツを食べさせよう

 

暴れん坊の目から

ポロポロ涙が溢れた

その涙に一瞬自分も涙が溢れて

どうしようもなかったと

O先生はいう

 

O先生は

教育委員会からは

終生 冷ややかな目線で視られ

気に入られず

退職の日まで 平の平教師であった

 

退職後

O先生は町会議員となり

地元のために 大活躍している

 

「柱」   昌子

 

お兄ちゃん十歳 弟六歳

居間の大黒柱に

油性マジックで書かれた背比べの跡

所々に漫画シールが貼られ

小刀で傷つけられ

小学中学高校と二人の成長の跡

 

やんちゃで気を揉ませたが

無事に人並に育ってくれた

男の子ふたり

 

一番高い身長の所

小さな母が跳びあがっても

届かない高さ

半世紀近く雨露に耐え

我々家族を守り支えてくれた柱

黒ずんでいても

しっかり家族の歴史を残し

想い出を刻んでくれている

 

バイクのスピード違反で

都心の警察に保護者が呼ばれたあの日

悪餓鬼数人とコンビニ裏で喫煙していて

担当教師に親が呼ばれたあの日

途切れ途切れの想い出が

やさしく押し寄せてくる・・・

 

運動会で二人ともクラス代表で走り優勝

アンカーを務めたお兄ちゃん

それぞれの大学入学卒業と

夫婦で参列した

満たされたときの流れ

 

息子たちは恋愛結婚して

最良の伴侶を得た

子供たちにも恵まれて

良い家庭を作っている

取り残された訳ではないけれど

いま二人きりになった

古い大黒柱の家

 

四人の孫と折々に訪ねてくれる

二組の家族

ゆったりと時は流れ

疵だらけの想いの積もった

くすんだ柱を

しっかり抱きしめる

 

「ポーラ化粧品徳之島営業所」   裕次郎

 

ポーラ歴四〇年

母のポーラとの出会いは

島を離れて転勤になる

先輩教師の奥様からの紹介だった

民間企業の販売会社では どうしても

売掛金の立替払いが発生する

それを営業所が全額月末に販社に支払う

そのためには

毎月現金収入がないと続かない

そこで

我が家は祖父が農業 父が月給取りなので

頼み込まれたのだ

 

母はセールスが苦手で きらいで

いやで いやでいやであったが

物を売るのではなく

良い化粧品を女性に紹介する

説明して試供品を使ってもらう

その上で自分に合って 良かったら

どうせ化粧品は必需品だから

自分の支出の許せる範囲で

ポーラを使ってもらう

 

理屈が解かると

いつまでも傍観者ではなかった

元々頑張り屋の母は

自分でも動き出したようだ

その代わり 知り合いには行かない

知り合いから話が来たときは

売ってあげる

が値引きはしない 嘘はつかない

島一番賑やかな街亀津とか

豪農の奥方を訪ねて

行商をして歩いた

 

ポーラを使ってみる

自分がきれいになる

他人にも勧めたくなる

その繰り返しだった

三人の妹たちも小さい頃から

ポーラの洗顔クリームを使い

きれいに育ってくれた

弟も私も化粧品は

母からの贈り物だった

買ったことがない

 

祖父も教育には熱心で

田畑を全部売り払っていいから

孫たちに教育をつけなさい

孫たち五人

男女の分け隔てなく

全員大学まで行かせてくれた

 

そのお陰でもあるが

またある意味では

母のポーラ化粧品

徳之島営業所での収入が

子供たちの学費に充てられたのも

事実であろう

良い悪いは別にして

学費のために

アルバイトをしたことはない

 

「裕次郎さんへ」  昌子

 

新婚の頃 意見が違ってくると ゲーテはそんなことは言わなかったよと反発

なんでゲーテが こんな所に出てくるんだ

変わった人だと思った

 

裕次郎二十歳の詩 詩集『あけみ抄』出版(1968)

文学仲間からいただいた

「あけみよ あけみよ」と情熱的な詩群

お礼状と感想文を出した

東京と神戸との文通が始まった

 

五通目でプロポーズされた

運命を感じた 一年間でダンボール一杯のラブレター

高校時代のあだ名は「博士」

大学時代のあだ名は「玄さん」

角川映画の角川春樹社長とは大学で同期

久我山高校から来た仲間と共に 高尾山へ山登りを楽しんだ

アルバイトで食いつなぎ 売れない小説を書いていた

 

結婚してやっと二人の男の子が生まれた

子供が幼い頃 ドリフターズの「へんなおじさん」の歌と踊りが流行っていた

裕次郎と二人の男児が「へんなおじさん」の歌と踊りで

部屋中グルグル廻っていて大笑いになった

「アッ へんなおじさん 三人の男の子」

 

三島由紀夫は 宣伝は派手に仕事は地味に と言っているよ

読書家なのですぐ作家の言葉が飛び出してくる

 

どうでもいいことは「ああ ソオー」と言いつつ聞き流す

妥協できないことは執拗に食い下がるので

「ハイ ハイ」うるさいので逆らわない

「ハイ は一つでいい」と机をドンドン

手が痛いのではと気の毒になる

 

親しき中にも礼儀ありでこれが我が家の基本

何かを手伝ってもらったら「ありがとう」と必ず言う

「お兄さん ちょっと来て」

「ハイハイ」とご機嫌で飛んでくる

決して おじいさんなどとは言ってはならない

 

「ありがとう」「ありがとう」が溢れる毎日

子供の頃 「男の子は台所に入ってくるんじゃない」ときつく叱られ

九州鹿児島男児

今も料理は目玉焼き位しかできない

独りになったら大丈夫かな・・・

 

 

「昌子さんへ」   裕次郎

 

奥さんは頭いいね

何でわかるんですか

電話の対応聞いていたらわかるでしょ

神田錦印刷での上司との対話

それ以来会社内で有名になった

まだ若い集団で上司を除いて 既婚者は私が第一号だった

 

二〇歳で集中的に書いた作品を詩集にまとめて 1968年27歳で第一詩集を出した

当時の五百部四十五万円は親父に出してもらった 今でも心が痛む まだ在庫がある

大阪に親戚がいてその人を通じて配布した一冊が

当時報知新聞大阪本社に勤務していた昌子に渡った

うちの従弟が東京にいて詩集を出したので読んでくれないか

昌子から早速長い読後感想文が届いた

 

昌子は四国の長曾我部元親十九代目の子孫だという 武士の子孫だ

結婚は武士の子孫だと私は心密かに決めていたので渡りに船だ

 

即結婚を申し出た 私には君が必要なのだ!

これで押し切った

昌子も東京志向があったようで

関西もいいけど東京で住めるのならと意を決してくれたようだ

神戸の親戚は 私玄理のことは目に入れても痛くないので 昌子の身辺を調べてくれた

昌子本人は評判がよく 賢いよくできた良い娘だという結論を伝えてきた

母が式を挙げる前にもう一度昌子に会いたいというので

報知新聞大阪本社に昌子を訪ねたことがある

いい娘さんだ!

満足そうに母は言った

昌子二歳の時 太平洋戦争で三十二歳の父親が戦死した

この事実は 昌子の人生に決定的な影響をもたらしている

 

それでもひるむことなく 前向きに人生に挑戦している

 

昌子の愛称を「マコちゃん」と言う

そう呼ばれた時がとても幸せそうだ

ならば呼んであげようか

 

マコちゃん!

しあわせかい

 

 

坂木昌子様 酒木裕次郎様 ご恵贈ありがとうございました。

 

「上野公園で」 ママはどこへ行ってしまったのでしょう? 上野公園では、こういうことが起こっていたのでしょうか?

だとしたら、悲しいですね。

 

「トンカツ先生」 O先生は素晴らしい先生ですね。自宅に預かるなんて、なかなか出来ることではありません。町会議員となって大活躍というのは、嬉しいことですね。

 

「柱」 息子さんたちも良い家庭を作られ、素晴らしいご一家ですね。疵だらけの想いの積もった くすんだ柱は 何者にも代えがたい宝ですね。

 

「ポーラ化粧品徳之島営業所」 裕次郎さんのお母さまは頑張り屋さんで、素晴らしいセールス・レディだったのですね。敬服してしまいます。

 

「裕次郎さんへ」 ご主人のことをよく理解されていて、上手に操縦(?)されているような・・・「ありがとう」が溢れる毎日で素敵なご家庭を作られていますね。

 

「昌子さんへ」 昌子さんとのなれそめが素敵ですね。ご縁があったのでしょうね。今でも、マコちゃん! しあわせかい  て言える夫婦関係が素敵です!!

 

 

ありがとうございました。ますますのご健筆とご活躍を祈念致します!