3人の女性たちのまなざし | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

歌人・金田千鶴は1902年11月生まれ。

詩人・金子みすゞは、1903年4月生まれ。

アイヌの言葉を文字化した知里幸恵は、1903年6月生まれ。

3人は、同じ頃生まれ、同じ時代を生き、短い命を燃やし、

弱いものへの眼差しを言葉にした。

 

金田千鶴のことは寡聞にして知らなかった。
長野県泰阜(やすおか)村の庄屋の家に生まれた。

上京後、入学した帝国女子専門学校で「アララギ」の歌人・岡麓に出会い生涯の師と仰ぐ。彫刻家の倉沢興世と恋に落ちるが、結核を病み帰郷。歌人として病気と闘いながら創作に励み、死の3日前まで、歌を詠み続けた。享年33。831首の短歌を詠んだ。

 

金子みすゞは、ボクが山口のNHKにいた頃、世に出た。以来、つかず離れずの長い付き合いだ。大正時代に彗星のごとく現れ、ひときわ光を放った童謡詩人だ。
彼女が童謡を書き始めたのは、20歳の頃から。4つの雑誌に投稿した作品が、そのすべてに掲載されるという鮮烈なデビューを飾った。

西條八十に「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。
だが、文学に理解のない夫から詩作を禁じられてしまい、さらには病気、離婚と苦しみが続いた。ついには、前夫から最愛の娘を奪われないために自死の道を選び、26歳という若さでこの世を去った。公演日の3月10日は、みすゞの命日。

 

知里幸恵は、北海道・登別でアイヌの子として生まれた。

幸恵は、アイヌで初めてアイヌの物語を文字化した『アイヌ神謡集』の著者として知られている。

1922(大正11)年、幸恵は金田一京介に招かれ上京するが、心臓病のため、その年、19歳という短い生涯を閉じた。

だが、アイヌとしての民族意識と誇りをしっかりと持ち、アイヌ語を伝えるという使命を果たした。

 

川崎市の市アートセンターアルテリオ小劇場で10日に開かれた「朗読と歌によるこんさあと いのちかけて」を観てきた。

大正時代末期から昭和初期、女性の表現活動が世に出ることが困難だった時代。短い命の火を燃やして鮮烈に生き、日本文学史上に大きな足跡を残した女性たちを描く。
作・構成・演出は、御年90歳のふじたあさやさん。

音楽を手掛けたのは、シンガーソングライターの吉岡しげ美さん。

ふじたさんと吉岡さんは40年来の仕事仲間。

吉岡さんはこれまで、ふじたさんが手掛けた劇や芝居のうち30作品の音楽を担当してきた。

吉岡さんは「同じ時代に互いを知らないで生きていた3人が、100年越しで演劇で出会うことが実現した」と語り、ふじたさんは「3人は、女性差別もあった時代に自分の主張をし、才能を開かせた」と語る。

 

川崎と飯田の演劇集団による朗読と歌によって、

金田千鶴、金子みすゞ、知里幸恵の生涯を、巧みにクロスオーバーさせていた。

吉岡しげ美さんと、ふじたあさやさん