はじめての人におくる般若心経 | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

般若心経は、身近にあった。

幼い頃、父が読経しているのを聞いていた。

松原泰道さんの『般若心経入門』(昭和47年初版)が120万部のミリオンセラーになった時、ボクも暗唱したものだ。

 

このたび、横田南嶺さんから、ご恵送いただき、新刊『はじめての人におくる般若心経』を読ませていただいた。

南嶺さんは、これまで般若心経の解説は至難の業だから遠ざけてきた。ところが「親ガチャ」という言葉を知り、「空の心」を説こうと思うに至った。親を選べないのは思う通りにいかないことだと、ゲームの仕組みに例えた風潮を憂えてのことだ。

 

般若心経は、「空」とは何かを問い続けるものだ。

この本で、南嶺さんは、いろんな角度から「空」を説く。

時に同じことを何度も繰り返して伝えるから、身に沁みてくる。

「かたよらない、こだわらない、とらわれない」ことなのだが、

そのことにとらわれてもいけない。

過去に執着したり、未来を不安に感じたりせず、

「ただ いま」を懸命に生きることが大事。

自分のモノサシで、比べることをやめたら、楽に生きられる。

 

自分で自分のことを決めているのは、どうやら錯覚だ。

「自我」はないのだ。

トンネルの絵の例えがわかりやすい。

地面や壁や山は描けても、トンネルそのものの絵はかけない。

トンネルの本質は空洞。これぞ「空」。

自我とはトンネルのようなもので、周辺のものはあるが、中身は空洞。

自我が消えたら、苦しみも消える。

 

鏡の例えもわかりやすい。

鏡の中には、何もない。物が前に来れば映るし、去れば消えるだけだ。生ぜず滅せず。けがれず浄からず。増やさず減らさず。

清浄無垢が、空。

 

仏心というのは、広い心の海に浮かぶ泡のようなもの。私たちが生まれたからと言って、海水が一滴増えるのでもなく、死んだからと言って、

海水が一滴減るわけでもない。もともとないものだから「不生不滅」。

 

あれこれ考えてきて、南嶺さんは「わからなくてもよい」と言われる。

分かるとは、2つに分断する。分けることは迷いの根本となる。

分からないは分断せず、考え続ける。

理解も幻にすぎない。分からないことは素晴らしいことなのだ。

悪魔と神も分けられない。邪悪なものと聖なるものも分けられない。

大事なことは分けられないところにある。

分け隔てせず、「すべてのものが満ちた世界」が空の世界。

空とは、何もないということではない。

 

つなぎ目がない。差別がない。境目がない。

すべての命は差別も区別も境目もなく繋がりあっているものだ。

もっと言えば、大いなる命の中に生かされている。

般若心経は、

「あるようでない」「ないようである」を飛び越え、

とてつもなく大きな世界に誘う「おまじない」といえるかもしれない。