過日、養老孟司さんの講演会に行ってきた。
いまいちばん会いたい人。
リアルで話を聞くのは初めてだ。
変な言い方だが、舞台に養老さんが姿を見せた瞬間、
「ほんものだー」と思ってしまった。
満を持しての登場という空気感ではなく、
まことにさりげなく、フラリと現れた。
逆にこういうほうが「カリスマ」を感じさせると思う。
晩年の朝比奈隆さんが、舞台に現れたときのように。
話すことばは、明瞭ではない。
口の中でモゴモゴ言っている感じ。
壇上を、右に左に動き回る。
ホワイトボードに、短いことばや簡単な図を書いては消し、
消しては書く。
実に「飄々淡々」。横町のご隠居が雑談をしているようで、
「講演会でござい」としゃちこばったところは、まるでない。
発音がはっきりしなくても、起承転結がなくても、
雲をつかむような話でも、煙に巻かれているようでも、いいのだ。
「養老孟司」だからいいのだ。
「養老孟司」だから聞いてしまうのだ。
「養老孟司独演会」は、
午後6時半ちょうどに始まり、午後8時ちょうどに終わった。
地球には、たくさんの生き物が共存している。
「自分の車が蹴られたら、自分が蹴られたような気になるでしょ」。
環境問題もそれと一緒。
地球には、人間だけが住んでいるのではないのだから。
人間だけを前提に環境問題を議論するのはヘン。
環境問題の壁を作っているのは人間自身。
論理的、効率的概念はアブナイ。
「自然」とは、「自ずから然り」なのだ。
「あるがまま」。
人間が勝手に自然に手を下すことは自然ではないのだ。
こぶし振り上げて、自然破壊反対論を繰り広げられるより、
極めてまっとうなことを飄々淡々と語られる方が、腑に落ちるものだ。
講演会の2日前まで、台湾で虫探しをしていたらしい。
自然の中に身を置いていて、
「東京渋谷に久しぶりに出てきたが目が回りそう」と言いながら、
少しも動じていない。