敬愛する鮫島純子さんが亡くなられた。
訃報に接し、驚きのあまり言葉をなくした。
長旅から戻ると、郵便受けに、一通の封書があった。
差出人は、鮫島さんのご長男の名前だった。
悪い予感がした。
封書を開けると、
「鮫島純子 他界のお知らせ」という文字が目に飛び込んできた。
「先般、去る一月十九日、鮫島純子は百歳の長寿をまっとういたしました。生前中の親しきご交誼を有難く、謹んで御礼とともに、ご報告申し上げます。
世界人類の平和なくして各人の幸せはないと確信し、全生涯を社会に尽くした祖父、渋沢栄一の遺志を継いで、人生後半の六十年、祈りによる世界人類平和をお伝えすることに生き甲斐を感じながら、生涯を明るく過ごすことが出来ました。
みなさまのご協力に心から感謝の上、遺族ともどもお礼を申し上げます」(一部省略)
これは、純子さん自身が、病床で書き残したものだそうだ。
自分の生き方に得心し、後顧の憂いなく、覚悟の去り方だ。
素晴らしい生き方死に方を教えていただいた。
人生の師として、そのことば使いや振る舞いから、多くを学ばせていただいたので、つっかえ棒を失った気分だ。
そんな姿を見せては、純子さんに笑われてしまう。
それはわかってはいるが、少しぐらいは感慨にひたらせてほしい。
そばにいるだけで、背筋が伸びた。
純子さんの品性品格がそうさせた。
「侍従」のようだと冷やかす人もいたが、
純子さんが喜ぶことならなんでもしたいと思った。
戦争中疎開していた三重県菰野町に行きたいと言われたとき、
すべてのお膳立てをした。
疎開先の子孫と対面して懐かしそうに語る姿を見ているだけで、
幸せな気持ちになれた。
ご自宅に伺い歓談したこと、何度も食事会をしたこと、
いっぱいいっぱい思い出が蘇る。
最後にお会いしたのは、去年3月、論語塾にゲストで来ていただいたとき。まだ冷え込みのある頃だったので「お寒くはありませんか」と気遣ったら、「百歳の温度感覚は誰にもわからないわよ。皆さんが寒いと言ったときは、もっと寒いのよ。皆さんが暑いと言ったときは、もっと暑いのよ」と言われた。ボクが平身低頭したのは言うまでもない。なにげない一言にも教えが満ち満ちていた。
一昨年秋、純子さんと一緒に食事したとき、満腹になり、いささかぼーっとしていたら、突然「あなたは次の世代に何を残そうとしているの?」と問われた、ボクが回らぬ頭で何か言おうとすると、機先を制して「それは愛よ」と言われた。ボクが「次世代継承塾」を始めるきっかけは、
この時の会話だ。
ボクの心の支えが、眼前から消えた。
肉体がなくなっただけとは言え、手の温もりを感じることも、
品性品格のあることばを直接聞くことは叶わぬ。
鮫島純子さんは、「なにがあっても有難う」の人だった。
心の底から湧き上がる感謝の想い。
当たり前のことは一つもないという想い。
世界人類の平和を祈念する想い。
鮫島純子さんの想いを受け継ぎ、次世代に継承していくことが、
後を託されたものの務めだと思う。