『長崎の鐘』にまつわるエピソードが心に沁みた。
吉岡秀隆さん演じる医師の永田武。
モデルとなった永井隆医師は、原爆投下直後の長崎で被爆者の救護と治療を行い、その様子を著書に記した。これに触発されて出来た曲『長崎の鐘』で、作曲を古関裕而が手がけた。
朝ドラ初出演となった吉岡さんは、子役時代からドラマや映画で親しまれてきた。名作テレビドラマ『北の国から』や映画『男はつらいよ』の満男役。人の心に残る演技をしてきた吉岡さんの存在感はすごかった。
吉岡演じる永田は、病室兼書斎の「如己堂」で裕一(窪田正孝)を迎える。ここでの吉岡は身体だけでなく表情の動きも最小限なのだが、病に侵された状態がひしひしと伝わってくる。
圧巻だったのは裕一との会話。
裕一は、戦場で散った若者たちのために「長崎の鐘」を作曲したいと話す。「贖罪ですか?」と尋ねる永田に「はい」と裕一は答える。
その答えに永田は大きく息を吸って、ゆっくりと言葉を区切りながら「『長崎の鐘』をあなたご自身のために作ってほしくはなか」と語る。
永田は「神は本当にいるのですか?」と問う若者に「どん底まで落ちろ」と語ったことを裕一に伝える。
訝しく思う裕一に「どん底に大地あり」と続ける。 すごいことばだ。
どん底にも自分の足で立つことのできる地面がある。
どん底の生活から幸福は生み出され、 育て上げられていく。
わずかな目の動きと声のトーンで、人を救うことの厳しさを伝える。
モデルとなった永井隆は、島根県出身の医学博士。
長崎医科大学を卒業後、放射線医療を専門とし、結核などで苦しむ人々の治療に尽力を尽くしていた。
1945年8月9日、長崎市に投下された原子爆弾で、妻を失った。
自身も大けがを負いながら、白血病と闘いながら、被爆者への救護活動を続け、死の直前まで、原爆病に関する医学的な研究を続けた。
永井博士は、自らの病室兼書斎として生活していた場所を「如己堂」と名付けた。病床にあった永井隆のためにこの地区の人々が建ててくれた家であり、その人々の心を忘れまいと、自身の生きる指針としていた新約聖書の一説 「己の如く人を愛せよ」からその名がつけれた。
1951年5月1日、永井博士はついに力尽きた。享年43。
長崎市による公葬が、浦上天主堂で執り行われて2万人が参列した。正午に浦上天主堂の鐘が鳴ると、船舶の汽笛も一斉に鳴り響き、市民は1分間の黙祷を捧げた。
(永井隆博士)
(如己堂)