画家、安野光雅さんは、92歳のいまも、創作意欲が衰えていない。
子どもの視線を持ち続ける安野さんが、子どもの感じる心、
子どもの素朴な疑問を育んでほしいと伝える本を出した。
なんでもかんでも「わかりやすい」ことが大事に思われて、
自分で考えることが少なくなってきていると、安野さんは憂える。
子ども自身が、
はだかで現実にぶつかることも少ないのではと指摘する。
子どもなりの葛藤を経験し、やがてそれを免疫にしながら大きくなっていくのに、親がその大切さを知らず、先回りして理想的な平和の園を作ろうとしている。それが問題なのだ。悔しさや屈辱感を経験するのも大事なのだと。
安野さん自身、運動会はいつもビリで嫌だった。
でも、いまとなれば笑いながら走った哀しい思い出を得がたいと思う。「照れ隠しの笑い」というのは貴重だという。
勉強は「自分でやること」が大事。勉強の基本は独学。
自分が面白いと思うものにのめり込んでいくのが、本当の勉強。
学校は、自分のやりたいことを見つけに行くところ。
たくさんのヒントを与えて、子どもを解答に導いたときは、一つの知識を与えたに過ぎないが、子ども自身が自力で解答を得たときは、たとえそれが間違っていても、「考え方の手順や発見の喜び」を教えたことになる。
質問にポンポン答える子が評価されて、「待てよ、こうも考えられるな」と迷い、じっくり考えてすぐに答えられない子はダメというのはおかしい。自分の目で見て、身体で触れて、自分の物差しを作っていくことが、とても大切なのだ。すべて本物に触れるのがいい。
天気予報で、「服を一枚多めに着ていきましょう」と言っている。サービスのつもりかもしれないが、これは自分で考えること。
テレビや新聞の報道内容を、そのまま受け取り、自分で考えないことは、よくあることだ。考えなくてすむようになっていることは、どういうことか考えてみてほしい。誰かから聞いた情報を鵜呑みにしていないか考えてほしい。
人の意見に惑わされないためには、どんなことにも動じない頑丈な地点に立ち、あわてないという堂々とした考え方が必要だ。
本を読むことと、「自分で考える」ことは繋がっている。
読書は、自分の考え方を育てること。
とにかく、子どもたちに自分で考えるくせをつけてほしい。
判断を他人に任せるようではつまらない。
安野さんは、あとがきに、ヴァイニング夫人のことばを引用している。
ヴァイニング夫人は、いまの天皇陛下の家庭教師だった人だ。
最後の授業で、こう語った。
「いつも自分自身でものを考えるようにしてほしい。聞いたことを全部信じ込まないように。新聞で読んだことを、みな信じないように。調べないで人の意見に賛成しないように。自分自身で真実を見出すように努めてください」
『二番目の悪者』に出会った直後、
この本に出会うとは、なんという巡り合わせだろうか。