論語塾に来て、声を出すと身も心も温まる。
論語は、素読がつきものだ。声に出すことで、頭に入っていく。
美しい洗練されたことばは、声に出しやすく、頭に入りやすい。
論語は、奈良時代は、教養人だけのものだった。
平安時代に入って、女官たちも学んだ。
枕草子にも論語の記述がある。
論語は、江戸時代に入って、一気に広まった。
庶民が寺子屋で学び始めたからだ。
文字が読めなくても声に出して覚えた。
とにかく声で身体に沁み込ませていった。
かつて細川護煕さんにインタビューしたとき、
こう言われていたのを思い出す。
「幼い頃、素読をやらされるのが嫌でしかたなかった。覚えが悪いと、父に棒で叩かれた。意味もさっぱりわからなかった。だが、大人になって章句を反芻すると、あーそういうことだったのかとわかる」
素読とはそういうことなのだ。
この塾にはプリントしたテキストがない。
安岡塾長の発することばを反復するだけだ。
初めて触れる、それも難解なことばだが、みんな声を合わせていると、
心も一つになれる。
きょうは、福島県郡山市から、わざわざ来てくれた人がいた。
雪の中、早朝出なければならず、二の足を踏みかけたが、
来てよかったと言ってくれた。
きょう、章句の中で「徳」の話が出てきたのだが、
「あればあるなり、なければないなりの徳をつみなさい」という母のことばを思い出したそうだ。
ボクのラジオを、ずいぶん前から聞いていたそうで、
しんどいときに、励まされたという。
「村上信夫情報」を調べていて「論語塾」を発見し、
思いきって、出てきたのだ。
ラジオの友あり、遠方より来たる。亦、楽しからずや。
(気の強い娘が論語をなぜ学ぶのか知りたくてきたという
お母さんの話を照れながら聞く狩野さん)
(はるばる郡山から来てくれた石本法子さん)