永さんは死なない21~1周忌にトークライブ | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

永六輔さんが、天の川を渡って1年。

再び、天の川を渡って、恵比寿に来てもらった。

どうしても、この日にトークライブをやりたかった。

どうしても、大島花子さんに、永さんの遺した詩を歌ってほしかった。

花子さんは、坂本九さんの長女。

六さんと九さんの想いを受け継ぐ人だ。

 

幕開けは、永さんの声から。

土曜ワイドラジオTOKYOの第1回放送のオープニングトーク。

1991年4月13日。26年前。永さん58歳。

舌に脂が乗り切り、エネルギシュなトーク。

まくし立てるような早口だが、中身はぐいぐい伝わる。

そして花子さん登場。『見上げてごらん夜の星を』

♪小さな星の小さな光がささやかな幸せを歌ってる

 ボクらのように名もない星がささやかな幸せを祈ってる♪

永さんって、どこまでも優しく温かい。

 

このトークライブ第一回のゲストは、

TBSアナウンサーの外山惠理さんだった。

その時のサプライズゲストは、永さんだった。

だが、秘密が保てない永さんは、バレバレで来てくれた。

今回も、外山さんに来てもらい、思い出を語ってもらう。

「愛づち」の名手、「つかず離れず」の距離の計り方の達人である

外山さんのことが、永さんは大のお気に入りだった。

 

3人で話していて、永さんへの想いは尽きない。

会場の皆さんにも「永さんに伝えたいこと」を聞いた。

「ズバズバした物言いが好きでした」

「笑顔が素適でした」

「わかりやすい言葉で伝える人でした」

「当たり前の平和を守るため、こんな世の中だからこそ、

まだまだ多くを語っていただきたかった。永さんの想いを後世に伝えていきます」

「村上さんのブログで永さんのことばに出会い、心惹かれました。

永さんの遺してくれたことばに出会いたいです」(永さんの名前くらいしか知らなかった30代女性)

「7月7日、母の命日と一緒です。そのご縁で来ました。

母とどのあたりで会っていますか?」

 

花子さんには、『ともだち』『上を向いて歩こう』『そして想い出』

『こんにちは赤ちゃん』『黄昏のビギン』『いい湯だな』

『夢であいましょう』と、たっぷり永作品を歌っていただいた。

そして、美輪明宏さんの『ヨイトマケの唄』も。

実は、この歌は、坂本九さんが、病床の母を想い、

美輪さんに頭を下げて歌わせてほしいと願った逸話がある。

昭和40年6月27日、京都会館での坂本九リサイタル。

出番前、舞台監督をしていた永さんが、九さんの耳元で囁いた。

「きょうは、お母さんのために歌いなさい」

このことばに母の死を悟り、九さんは涙ながらに「ヨイトマケ」を歌った。

 

アンコールは、『見上げてごらん夜の星を』をアカペラで。

会場も一体になって、永さんを偲びながら歌った。

その時、会場で涙ぐむ一人の青年がいた。

永育之介くん。永さんのお孫さんで俳優だ。

スッキリとした長身。面長な顔立ちは祖父を受け継いでいる。

受け継ぐのは、祖父の想いもだろう。

永さんが、会場に呼んでくれたようで、嬉しかった。

 

(左から、ギターの笹子重治さん、大島花子さん)

(左から、外山惠理さん、永育之介さん)

       (中西城さんと お父さんに似てる)

この日、もう一つ、嬉しい出会いがあった。
ボクをNHKへ、アナウンサーへ導いてくれた恩人、
中西龍アナウンサーのご子息の城さんとようやく会えたのだ。
明治学院大学の先輩である中西龍さんに会い、
アナウンサーの魅力を問うたら、「人の喜びを倍に哀しみを半分にすることだ」と言われ、その言葉に感動し、思いもよらぬアナウンサーの道に進んだ。
ボクがNHKに入ったころ、晩酌しながら、毎晩のように、
息子の城さんにボクのことを語っていたそうだ。
当時、明治学院に通っていた城さんに向かって
「おまえの先輩で、NHKに入ったいいやつがいるんだ」と。
そのことを伝えたくて、きょうは来たと城さん。
嬉しくて嬉しくて泣きそうだった。
これも、永さんのお引き合わせ。
永さん、有難うございます。
ボクも永さんからのたくさんの「借り」を返していきます。