京都女子大学で種まき | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

京都・東山七条。

智積院と妙法院間から東の方角へ延びていく坂道がある。

人呼んで「おんな坂」。距離は408m 、高低差は25.41m。

京都女子大学やその付属中学高校に通う女生徒たちが、

朝な夕なに上り下りするため、

その通学路が親しみを込めて「おんな坂」と呼ばれているのだ。

その坂を登り、京都女子大で特別講義してきた。

文学部の2回生、およそ200人。真剣に耳を傾けてくれた。

 

学内に、モダンな洋館がある。

大谷光瑞師(本願寺第22代-鏡如上人)と籌子裏方の結婚にともなう新居として、明治30年代に本願寺百華苑内に建てられたフランス様式の木造建築物。大正9年京都女子学園に移築された。

「錦華殿」と呼ばれる。
学園のシンボルとして東山にその麗容を誇っていたが、

昭和56年、老朽化のために、解体された。
その後、再建の声があがり、平成12年に竣工に至った。

 

その錦華殿で「大谷籌子裏方 京女への道程(みち)」という企画展が開かれていた。(~今月30日)

大谷籌子は、西本願寺法主・大谷光瑞の妻(西本願寺裏方)であり、いまの京都女子大学設立の推進者となった人である。

大谷籌子は、1882年(明治15年)九条道孝の三女として生まれた。

妹は、大正天皇の后である貞明皇后(九条節子)である。

11歳のとき大谷光瑞(当時17歳)と婚約し、西本願寺に住むこととなる。光端の妹、大谷武子(のち九条武子)とは、そのころより大変仲がよかったといわれている。17歳で結婚し、西本願寺裏方、および仏教婦人会総裁となる。

1900年、甲斐駒蔵・和里子夫妻が開いた私塾「文中園」を、西本願寺が支援することになる。1910年、甲斐夫妻が西本願寺・仏教婦人会連合本部より経済援助を受け、「京都高等女学校」を買収し、文中女学校を合併すると、仏教婦人会連合本部は、京都高等女学校の経営を委託され、京都高等女学校の経営主体となった。

籌子は京都高等女学校の名誉校長となり、経営に尽力したが、

翌1911年、29歳の若さで急死した。

のちに行啓した貞明皇后(大谷籌子の妹)は、

「あたたかに、香りゆかしき心の学校である」と述べられた。

 

建学の精神に曰く「与えられたいのちの不思議に目覚め、

人間のおごりを捨て、すべてのいのちを大切にしよう。

得難く限られたかけがえのない人生。ともに尊ぶ世界を開こう」。

その精神が、学生たちの中に脈々と流れている。

教室からは、学びへの意欲が感じられた。

「いただきます」の意味も理解してくれていた。

「有難う」の反対は「あたりまえ」と即答してくれた。

 

(今回の講義窓口、講師の蒲生孝治さんと)

(再建された錦華殿)

(大谷籌子の肖像画 品のある美人)