追悼~福の島を愛した男 | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

大橋雄二さんが、今月2日、ついに力尽きた。享年60。

血友病に伴う痛みは、いかばかりであったろうか。

常に関節が痛んでいるから、5日に1度の割合で、血液製剤を投与していた。

痛みをこらえ、いつも笑っていた。

明るく弾んだ声だけ聞いていると、

大橋さんの身の上に起きている全てのことを忘れてしまう。

 

大橋さんと知り合ったのは、2011年3月9日。震災の起きる2日前だ。

ラジオのゲストに来てもらった。

福島で日本の風土にあった日本人のためのパン、

地ビールならぬ、「地ぱん」を産み出した人だ。

病気にもめげず、福島の食材や味を生かしてパンを作る心意気を語ってくれた。

震災がなければ、1回だけの付き合いに終わったかもしれない。

 

2日後、まだ東京にいた大橋さんは、

交通途絶の中、手を尽くして福島にとって返した。

そして、被災した人たちにパンを分ける陣頭指揮をとる。

だが、小麦もイーストも手に入らなかった。

ケガをしたら出血がとまらないから、行動に慎重にならざるを得ないのに、

縦横無尽の動きで、ありとあらゆるツテを生かし調達した。

日に15000個のコッペパンを焼いた。

飢えや寒さや不安で、心が冷え切っている時に、

「福島を福の島にしなきゃならないんだ」と笑いながら言うこの男はすごいと思った。

 

1956年生まれ。

生家は、学校給食のパンを中心に作るパン屋だった。
幼い頃から、ケガをしたら血が止まりにくいので、

病院で検査を受けたら、血友病と判明した。

2万人に1人の確率で発生する不治の病だった。
だが、病気にもくじけず、意志が強い明るい子だった。

とことんやりぬく性格と、

物事にとらわれない柔軟な発想の両方を持ち合わせていた。

10代の大半は、寝たきりで、関節の痛みとの闘いだった。

機能障害が進み、体が膠着して、寝ているのさえ苦痛になった。

主治医から、このままでは寝たきりになるから、

一か八かで機能回復訓練を勧められた。

たった1センチ動かすだけで激痛が走る状態から始めたが、

3ケ月ほどで、車椅子に乗れるまでに回復した。

半年後には、松葉杖で歩けるようになった。
レストランでマネージャーの仕事と、

英語検定1級にも合格し英語講師も始めた。

ついに病気を克服したと浮かれていたのかもしれない。

アクシデントが襲う。

1981年、レストランで転倒し、

これがもとで左足の一部が壊死して、切断する事態となった。
しかしこの大きな出来事が

「病は打ち負かすものではなく、

折り合いをつけるべき友人だ」と気づかせてくれた。

光も影も自分自身。血友病を『友』として生きよう」と思った。

大橋さんは、マイナス要素が増えると、かえってパワフルになっていくようだ。

震災後も、「もう身体中が悲鳴をあげている」と笑いながら、

自分は二の次、人のために生きていた。

 

彼から来た最後のメール(去年7月5日)は、

長い文章に想いが綴られていた。

 
 

「母の偲ぶ会の際は 本当にありがとうございました
ゆっくりお話も出来ず申し訳ございませんでした。
あの日は体調が最悪で正気で起きていることもままならぬ状態でした。

とにかく偲ぶ会は、やりとげようと、

自分の体は眼をつぶらざるを得ない状況でした。

今まで受けた母からの愛情を考えれば、

それでも足りないくらいであることは充分判っておりましたが

体がギブアップでした。
結果、肝硬変悪化、腹水で腹部パンパン、

食道静脈瘤破裂の再発の懸念で…ドクターストップ。
その後もいろいろあり、兄夫婦や息子夫婦と家族会議を開き、
まことに急なことではありますが、

北海道岩見沢の社会福祉法人に入所することにしました。
なにより 私が少しでも長く生きることと

妻の心身の負担をできるだけ軽くするという二点に集中し

出した結論でした。
そこには息子が勤めており、

嫁も優しい子で 初孫もスクスク育ってます。
私も息子夫婦、孫に囲まれ、

久しぶりに少しゆったりさせていただきます。
今度は現地で日本一の創造的共生福祉組織となるよう

今までの経験を活かそうと考えております。
今まで福島にて長きに渡りお世話になった心からの感謝と、

今後の変わらぬご指導、宜しくお願い申し上げます」

 

大橋雄二さん、あなたは、人の何倍も生きたよ。

もう十分生きたよ。

痛みからも解放されたね。

ゆっくり、自分のために生きてね。

福島が福の島になるよう、これからも微力ながら、力添えするからね。

有難う。