エミー賞を受賞した話題作「SHOGUN 将軍」の時代考証をしたのは、フレデリック・クレインスさん。
膨大な資料を読み込み、日本人より、日本文化、戦国時代のしきたりに詳しい。
クレインスさんはベルギーに生まれ、三船敏郎さん主演の1980年版『将軍』を見て日本の歴史や文化に関心を持ち、日本史の研究家となった。今は日本に帰化して京都に住んでいる。
国際日本文化研究センター副所長・教授。専門は戦国文化史、日欧交渉史。
武士の死生観は、戦国時代と江戸時代ではまったく異なる。
江戸時代に戦国時代に関する本がたくさん書かれたが、江戸時代の儒教的な理想主義に基づいて、戦国時代について書いた想像の産物だ。
戦国時代を描く際に、これらの本が参照対象とされるため、テレビや映画の時代劇では江戸時代、とりわけ幕末の風物や雰囲気をまとって描かれてしまいがちだ。
戦国時代の武士たちは、刹那的で激しく、常に死と隣り合わせで生きていた。
合戦での討死は名誉とされ、主君の死や敗戦の際には、ためらうことなく自ら切腹を選んでいる。命より家の将来や社会的立場を重んじ、死を〝生の完成形〟と捉える死生観が、その覚悟を支えていたのだ。
戦国の武将たちは、江戸時代の武士と多くの点で異なっていた。たとえば、主従関係。戦国時代は社会構造そのものが流動的であったため、江戸時代に比べて主従関係も不安定だった。
江戸時代のように、主君との関係性が倫理観や規範意識によって維持されていたのではなく、主君に対する個人的な情愛や信頼感が重視されていた。
各地で武力衝突が頻発していた戦国時代の人々にとって、死は決して他人事ではなく、日常の一部であった。
武将たちは信仰心が篤く、刹那的でもあり、感情に忠実だった。
打算的かと思えば、惚れ込んだ相手には命まで捧げてしまうほど純粋な一面も見られ、本能的な多面性が戦国の気風の本質であった。本能寺の変は、まさに戦国の激しい世相ゆえに起きた事件と見るべきで、著者は「野心に突き動かされた光秀による突発的な事件」ととらえている。
信長が見せた一瞬の隙を見逃さなかった光秀による下剋上と理解するのが、自然な解釈ではないかと分析する。事件に計画性がなかったことは、ほかならぬ光秀自身が書状のなかで吐露している。
戦国時代はよく江戸時代と混同される。
テレビや映画などの時代劇の舞台が圧倒的に江戸時代に集中しているので、視聴者の多くが江戸時代の武士像に慣れ親しんでいるから、戦国時代の武家についての誤解が出来てしまいがち。
例えば、日本人の座り方は、古来、正座が定番であったと思われがちだが、正座が広く社会に広まったのは江戸時代以降のこと。正座という言葉も、一般化されたのは明治期であった。
戦国時代、武士の日常的な座り方は胡座が一般的。また、いざというときに素早く立ち上がることができるように、立膝や片膝立ても好まれた。
和歌、連歌、能楽、茶の湯といった芸道に優れていなければ、武士として失格だと考えられた。
茶の湯は基本的に、戦国武士の人間関係と密接に関わってた。
戦国武士はよく仲間を訪問し、そのおもてなしとして茶の湯が発展した。
能楽も武将たちの間で大人気だった。ただ観るだけでなく、自分でも舞った。細川幽斎・忠興父子が能を演じた記録は、数え切れないほど残されている。秀吉も能にのめり込み、自分が主人公として描かれる演目を複数作らせた。これらは「太閤能」と呼ばれている。
武将たちにとって最も特別な文芸は和歌であった。
和歌は、この世の儚さを表現するのにぴったりだった。
仲間との歌合や連歌会もあれば、1人でも創作した。出陣する前にも、死ぬ直前にも歌を詠んだ。当時の史料を見ると、必ずといってよいほど和歌が登場する。
きわめて短い言葉で自分の思いを表現することになるので、そうした鍛錬が、日常の何気ない言葉にも表れた。
歌心のあるなしで、その人の品格のあるなしがわかり、また、情のあるなしもそこに反映されるという考え方があった。
戦国武将たちの宗教観についても興味深い指摘がある。
無神論者であったといわれる織田信長ですら、桶狭間の戦いの際には熱田神宮で戦勝を祈願してから出撃している。
豊臣秀吉は京都に日本最大の大仏を造立し、徳川家康は「厭離穢土 欣求浄土」という浄土宗の言葉を自身の旗印に採用していた。
武将たちの多くは寺社の有力な庇護者であり、合戦の際には護符や小さな仏像を身につけて戦場に臨んだ。
合戦の勝敗はもちろん、政治や文化、私生活においても、彼らはあらゆる場面に神仏の意思を感じ、その導きを求めていた。
戦国武将の中でも、最も熱心な宗教者だったのが、上杉謙信。
彼は宗派にこだわることなく、さまざまな仏や神々を信仰し、日常的に祈りを捧げていた。真言の唱和や経典読誦の回数まで定めていた。
謙信は、禅宗と真言宗の両方に深く親しんでいた。幼少期から禅僧たちと親交を深める一方で、高野山で、真言の奥義も学んでいた。晩年、剃髪して、僧侶の最高の位である法印大和尚となった。
「自分と生き写しの不動明王像をつくらせた武田信玄」も、ライバル謙信と並んで熱心な宗教者であった。
信玄は、武田家の菩提寺であった臨済宗妙心寺派の恵林寺を手厚く保護し、お抱えの祈願所として重視した。
信玄は武田家の氏神である諏訪大社も崇敬し、社殿の造営や社領の寄進を行った。
武田軍といえば、「風林火山」(其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山)の軍旗がよく知られているが、信玄は軍の先頭に「南無諏方南宮法性上下大明神」という諏訪神号旗を掲げさせていた。自身の兜には、小さな諏訪明神像を飾りつけていた。
神仏の加護を得るため、懸命に手を尽くしていた様子が浮かび上がってくる。
信玄の信仰心に関しては、イエズス会士のルイス・フロイスが書状の中で「信玄は剃髪して坊主となり、つねに坊主の服と数珠を身につけていた。1日に3回、偶像を祀るために、戦場には600人の坊主を同伴させている」と書いている。
徳川家康は、浄土宗に帰依していた。彼は旗印に「厭離穢土 欣求浄土」という浄土宗の言葉を掲げて合戦に臨んだ。「穢れたこの世を離れ、来世は美しい仏の世に生まれたい」という意味の言葉だ。
生涯、多くの僧侶たちと親交を重ねた。とりわけ、晩年の家康が天海と以心崇伝をブレーンとして登用していたことは注目に値する。
多くの人を殺した罪滅ぼしとして、日課に6万遍もの念仏を唱えていたという。
戦国時代の武将たちは、信仰を精神的なよりどころとしていた。現代的な感覚とは異なり、彼らの多くが直情的で、荒々しい信仰心をもっていた。信仰を心の支えとして、無常観にもとづく死の覚悟を内面化していた。
多くの武将たちが禅宗に傾倒していた事実も見逃すことはできない。彼らは、座禅などの修養を日常生活に取り入れることで、平常心を養い、精神統一に努めていた。澄み切った境地で、判断力を磨いていた。
「討ち取られた大量の首の行方」という指摘では、戦国時代人が現代人とはまったく異なる感覚を持っていたことがわかる。
討ち取った首は戦場における働きの重要な証拠とされたため、合戦が終わると軍奉行のもとへ届けられた。合戦が終わるまで、
武将たちは首を紐で縛って腰に結びつけて戦闘を継続していた。戦闘が終わると、通常は左手で首を持ち運んだが、なかには槍の先に突き刺して持ち運ぶ姿も見られた。
身分の高い武将の首は、総大将も参加する首実検の場に供され、首の人物の特定と手柄の確認が行われた。
首実検に備えて、夫が持ち帰った生首を妻たちが洗い清めていたという。
首実検を経て正式に戦功が確定されると、戦果は「首帳」に記録された。大坂夏の陣で、徳川方で認定された首の数は約1万4000に及んだ。家康の孫にあたる松平忠直は、実に3753の首級をあげたと記録に残る。
戦国時代の切腹について。
江戸時代には、切腹が刑罰の一種として制度化されていたが、もともと戦国時代の武士たちにとって、切腹は自身の名誉を守るための最終手段だった。自身の腹に刀を突き立てるには、人間としての限界を超えるほど、相当の覚悟と勇気が求められた。
古来、腹は精神や意志を象徴する部位と考えられてきた。そこを切り裂くのは、武士としての内面的な姿をあらわにする行為だ。つまり、物理的な意味でも“腹のうち”をさらすことにより、自身の潔白や精神性の高さを証明するという意味合いが込められていた。
死を覚悟して酒宴を催すのは、戦国の武家の慣習であった。
当時は、死を『ハレ』の場としてとらえていた。宴会は『日常』から『非日常』への移行を示す儀礼的な場。最期の宴会は、この世からあの世への移行における神聖な通過儀礼として機能していたという。
宴会という「祝いの場」で死を迎えることは、死を忌むべきものとしてではなく、人生の完成としてとらえる武士の精神世界の表れだと、著者は言う。
この本を読んでいると、まるで戦国時代に紛れ込んだような気分になった。これまで抱いていた戦国時代の新たな見方を教わった。
細部にわたって、クレインスさんが時代考証をした「SHOGUN 将軍」は、続編が作られることが決まった。引き続き、クレインスさんが時代考証をする。役者の演技もさることながら、「細部の考証」を見るのも楽しみだ。
