村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

3人目は作家の池澤夏樹さん。

「自然界と人間のルールは、ほとんど合わない。人間の世界よりも、自然の世界の方が本物という気がする」。

こう語り、快適な都市の中に閉じこもるようになってしまった社会の姿に疑問を投げかける。
その考えに大きな影響を与えたのが、アラスカの大自然に身を置き、動物や人々の暮らしを記録し続けた写真家・星野道夫さんとの親交だった。

 

池澤さんの考えをまとめてみた。以下の通り。

実際にアラスカに行って動物たちを見ると、人間の世界よりも、自然の世界の方が「本物」という気がする。

地球が出来たときから連綿と続く世界だから、そちらのルールで自律的に動いている。自然界と人間のルールとは、ほとんど合わない。

自然界は厳しいし、容赦ない。恩恵であると同時に、制約でもある。その中で動物たちはインチキしないで生きる力を身につけてきた。それは本来、当たり前のことなのだが、人間の側を見ると、そうしたルールを無視して、インチキをするようになった。

全身の中で脳の力を異常に高めて文化をつくり、その中に籠もるようになった。自分たちの世界は、安楽かつ危険も少ない。しかし、その分だけ、生きる姿勢にゆがみが生じた。

つまり、人生をなめている。そのことがだんだん蔓延してきて、社会全体もゆがんできた。一見繁栄しているように見えながら、非常に危うい状態だ。本来受け取るべきリスクをサボっているから、それに対応する力や知恵がない。

たとえば、登山のさなか、途中で水筒を忘れてきたことに気づく。そうすると、同じ距離をまた歩いて戻るしかない。自然は容赦してくれない。1mたりともおまけしてくれない。

これは自然が冷酷だということではなく、ただ人間に対して無関心だということ。やれるだけやってごらん、と突き放すだけ。その中で生きていくしかない。文明の中で安楽に暮らすことで、その原理を人間が忘れてきたのだ。

人間の文明を1本の木に見立てたとき、「登った木からの降り方がわからず、今にも折れそうな枝にしがみついている」と指摘する。

 

続いては、生命誌研究者の中村桂子さん。88歳の今も、ぶれない研究者として、おかしな風潮に異議を唱える。

「合理的に効率よくやろうとしていたら、生きものはとうの昔に消えていたと思う。一つの価値基準で競争させて、いいものだけを残そうとしていたら消えていた。矛盾を組み込んで、『何でもあり』でやってきたからこそ、生きものは続いてきた」という。

 

中村さんの考えをまとめてみた。以下の通り。

短期間の金もうけにつながることだけを効率の良さと考え、それがやるべきことだという社会になっていたところが問題だ。

競争で効率化を図ろうとする新自由主義が影響している。

新自由主義は、中村さんの言う「生命誌」、人間は「生きもの」であるという考え方と対極にある。

全てを個の責任にして、とにかく競争させる。競争させればよい社会ができるという考え方は間違いだとは、誰の目にも明らかなはずだ。

 

人間は生きものであり、生きものにはアリもいれば、ライオンもいる。そこで、「アリとライオン、どっちが上?」と言って比べることなど、決してできない。

アリはアリですばらしい、ライオンはライオンですばらしい。

アリとライオンのどちらが優れているかと比べるのは無意味。

同じように、1つの価値観の中で人間を1番、2番と比較するのは無意味だと思う。ほかのところでいいことがあったら、それでいい。駆けっこが遅くても、その人が絵が上手だったらそれでいいと思う。

ライオン、アリ、タンポポ、バラ……。生きものには、本当にたくさんの種類がある。それぞれ全く異なる特徴があるけれど、トータルで見ると全部同じ。人間もそれぞれ個性はあるけれど、トータルで見たら同じ。

 

「人間は生きものだ」ということ。

生きものはとても多様。多様とは、いろいろなものがいるということ。動物、鳥、魚、昆虫、それから植物もいれば、目に見えないバクテリアもいる。数千万種類もの生きものが地球上には存在している。生きものは非常に多様なのにすべてに共通性がある。すべての生き物は細胞でできていて、その中には必ずDNAがある。それぞれの生きもののゲノムが入っている。

その元は皆、40億年ぐらい前の祖先細胞。昔は「バクテリアなんて単細胞でたいしたことない」とか、「昆虫は虫ケラだ」とか言って、一番上に人間がいると、生きものにすら序列をつけていた。

今の生物学には下等生物、高等生物という言葉はない。

なぜなら、生きものは全員、40億年の時間を持っていて、その意味ではタンポポもアリも人間も皆、同じ位置にいる。

生命誌絵巻で見れば、扇の要から天までの距離はどこも等しく、 そこに高等、下等はない。

人間は生命誌絵巻の中で、ほかの生きものたちと同じところにいるということを忘れてはならない。

だから、「人間」という言葉を使っていても、それは本当の意味で人間ではない。仮想の存在。

この頃は生物多様性やSDGsなどと言って、環境のことも考えなくてはいけないと言い始めているが、これは「上から目線」。

本当は生命絵巻の中にいる。だから、「中から目線」。

それを勘違いして、人間だけを特別な存在と考えてはいけない。「人間のために」というけど、中からものを考えなければ、人間のためにもならない。

 

二酸化炭素を減らそうということになって、世界中の国や企業が「脱炭素」の取り組みを始めているが、「脱炭素」というのはおかしな言葉だと思う。そもそも、私たち生きものはすべて炭素化合物で出来ている。DNAもたんぱく質も糖も脂肪も、全部炭素の化合物で、それが体の中で筋肉や脂肪としてはたらき、私たちの体を動かすエネルギーの素にもなる。

私たちの吐く息は、呼吸で吸い込んだ酸素と炭素が結合してできた二酸化炭素だ。「脱炭素だ」なんて言ったら、私たちはこの世界にいてはいけないし、呼吸もしてはいけないことになってしまう。「二酸化炭素排出抑制」と正確に言わなければと思う。

こういう言葉遣いひとつとっても、環境に関心があるように見えながら、実のところは自然と向き合っていない。

むしろ、自然を征服しよう、新しい技術でなんでも解決しようとしているから、ここを変えないといけない。

 

春山慶彦さんが、これまたいいことを言っている。

今の社会は、意味を問い過ぎている。

意味ではなく、衝動やワクワク、ときめきに素直にしていると、その経験が後に意味になる。

それから、自分探しにとらわれないほうがいい。自分を取っ払った方が生きやすい。

自分から矢印が出て、矢印の行き先も自分に向いていると何も変わらない。矢印の行き先を世界に向ける。世界全体と自分のいのちが繋がる感覚を概念でなく身体経験として理解してほしい。

 

「こどもを野に放て!」

こどもを野に放とう!ではなく、断定調の言い方に凄みがある。

読み終えて、納得すること多く共感すること多く、本はマーキングだらけになった。

1回では、まとめきれないので、3回に分けて紹介する。

 

学びにも、ビジネスにも、今必要なのは、身体性に裏打ちされた、たしかな「自然観」だ。
都市化が急速に進み、こどものリアルな自然経験が少ないことによる弊害が指摘されている。人は実際に体験し、そこから得られる知覚を通して抽象的な概念を学び、ゆっくりと知性を育むものだ。
登山アプリ「YAMAP」創業者で読書家としても知られる春山慶彦さんが、養老孟司さん、中村桂子さん、池澤夏樹さんと語り合う。

 

春山さんは、1980年、福岡県春日市出身。

登山アプリ「YAMAP」CEO。電波の届かない山の中でもスマートフォンで位置情報がわかる登山者用地図アプリを提供する「YAMAP」を創業。アプリのダウンロード数は2024年1月時点で410万ダウンロードを超え、国内最大の登山・アウトドアプラットフォームとなっている。


解剖学者の養老孟司さんは、日本人が幸せになるために、都市から離れ、自然の中での「感覚」を取り戻す重要性を訴え続けてきた。

現代社会は、感覚から入るものを非常に軽視しがち。勉強すれば何でも頭に入ると錯覚している。答えは一つと思い込み、自分が考える正解以外はまったく受け付けないのは、考え違いもはなはだしい。「わからない」ことは面白いのに。

野山で遊ぶうちに知らず知らず受け取っていた感覚知が、今の子どもたちには充分に入っていないのではないか。

目で見る、耳で聞く、手で触る、鼻で嗅ぐ、舌で味わう…身体で感じることは「入力」。それに反応するように身体を動かすのが「出力」。その入出力を繰り返して行くことで、脳の中ではルールができていく。カンを磨くには、幼い頃から入出力を、どんどん繰り返す必要がある。

 

環境の中に人類がいて、人類の中に自分のいのちがある。

数学者の岡潔は、この視点を「宇宙樹」と表現する。

宇宙という大きな木があり、地球という幹があり、

生物という枝の人類という小枝の先に、

自分のいのちという葉っぱがある。

 

貝原益軒は『養生訓』の中で、幸せに生きることを「徳を積む」と表現している。自分のいのちと他者のいのちは繋がっていて、天地とも繋がっている。自分のいのちが喜ぶことは、他者も天地も喜ぶという生命観だ。

 

自然経験こそが最上の教育。

感覚を通した知覚があり、その次に思考があり、行動がある。

何を見て、何を感じるかが知性の原点。

感覚や感性を磨くには、自然の中がいちばん。