『幸せのかたち~気づくための機会としての逆境~(3)』について
今日は、うつ病や難病等での体験からのお話です。
昨日は、『幸せのかたち~気づくための機会としての逆境~(2)』について、『「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」と昔から言われている。今は恵まれすぎて大切なことに気がついていない人が多い』と思われることについて、お話ししました。
今日はその続き、『幸せのかたち~気づくための機会としての逆境~(3)』について、お話しします。
私はこの要因の一つとして、「憲法にある最低限度の生活にあまりにも頼りすぎてしまったからということにもある」と思われるのです。
「何かあったら政府が、県が助けてくれる」
本当にそうでしょうか?
今、本気でそう思える人って私はとても少ないのではないか、と思えます。
政府が無力というよりも、先週お話ししたように「戦後にできた世の中の仕組みが80年経った現状と乖離しすぎてしまった」ことにある、と考えています。
時代に合わないやり方では、誰が首長になって誰が政治を行っても力を十分に発揮することは困難ではないでしょうか?
だから、選挙を繰り返しても同じことになってしまい、だんだんと「みんな選挙に行っても無駄だ。変わらないではないか・・。」となるのは当然だと私は思います。
「選挙に行っても無駄だ」と言うのではありません。
ただ、このことをみんな言葉にしない、できないでいるだけで、直感としてみんなわかっておられるのだと思います。
私たち国民は、県民はそれほど馬鹿では決してありません。
でも、どうすべきなのか、わからないことだからではないでしょうか?
話を元に戻します。
戦前と比べて恵まれていることはみなさん、ぼやっとでもおわかりになると思われます。
でも、その恵まれた環境で社会はどう変わってきたのでしょうか?
いつの間にか、これまで困っていたことがなくなってしまい、「何かあれば誰かが助けてくれる。それが当たり前だ。」となってしまっている。
戦前まで「自分たちのことは自分たちでやらないと恥ずかしい」という人々の意識が、今の世の中に見受けられるでしょうか?
恥ずかしいことだと思わないで、「政府は何をやっているんだ!」「県は何をやっているんだ!」という声の方が圧倒的に多い。
私よりもずっと高齢になった方までもそう思われている方が多いのではないでしょうか?
例として現在の社会で最もわかりやすいのが、ロシアとウクライナのことです。
戦後の「戦争放棄」「核廃絶」「非核三原則」等は私も正しかったと思っています。
でも、ウクライナの惨状を見ていて、みなさんはどう思われているのでしょうか?
「核を使うぞ!」と前面に出してくるロシア。
仮に、ウクライナではなく、これが我が国、日本であればいかがでしょうか?
「戦争放棄」「非核三原則」等と言ってられるでしょうか?
武装することが良いこととは私は考えていません。
でも、銃を持って押し入ってきた強盗に対して、「お前は間違っている。銃を持つことはいけないことだ!」と言って、果たして強盗は「私が間違ってました。ごめんなさい。」とわかってくれるでしょうか?
火事の時に必要だからご家庭には消化器を設置します。
このことと同じことではないかと私は思います。
ここで申し上げたことは、世の中で「うつ病が蔓延」していることも、無理な枠組みの中で頑張ろう、生きようとする結果である。
このことを私は仏さまが「早く気づいた方が良いですよ!」と教えてくださっているのだと思います。
「早く違っていることに気づくことで、手遅れにならず、早くまたやり直すことができる。」
そうして、「人は幸せになっていくことができ、また社会も良くしていくことができる」
私はこのように考えています。
みなさんはどう思われているのでしょうか?
「臨終正念」
「今、私たちに、自分に必要なことは一体何だろうか?」とよく考えてみることで、私たちは今よりもきっと幸せになれるはずです。。。。
以上、『幸せのかたち~気づくための機会としての逆境~(3)』について、お話ししました。