『幸せのかたち~気づくための機会としての逆境~(2)』について
今日は、うつ病や難病等での体験からのお話です。
昨日は、『幸せのかたち~気づくための機会としての逆境~(1)』について、石原慎太郎先生に教わったことを交えて、お話ししました。
今日は、『幸せのかたち~気づくための機会としての逆境~(2)』について、お話しします。
私は余命宣告を受けてから、やっと石原慎太郎先生から教わった「臨終正念」という言葉の真意に気がつきました。
人はその立場になってみないとわからない。
そう昔から知ってはいましたが、私の場合もそうでした。
生命が危険にさらされてから、本当に大切なことに気づかされたのです。
今、ひょっとすると先生ご自身もそういう経験がおありになったのかもしれません。。。
そう考えると、今、ほとんどの方はこのことに気づかない方が多いことに気がつきました。
恵まれすぎて目の前にある幸せに気づかずにいる。
そんな風に私には見えてきました。
生まれながら守ってくれるべき存在がなく、幼少から食べ物の心配をしながら私は育ちました。
経済的に困ったという言葉では表現することができない、とても理不尽なことにもたくさん遭ってきました。
でも、そのことから反対に、私はほんのちょっぴりの人の善意のこころに触れたときのことを、ずっとありがたく感じて今なお忘れないでいます。
そうした人のささやかな親切がいつまでも私のこころの中に残っているからこそ、私はどうにか悪戦苦闘しながら病を闘い、こうして社労士事務所を営むことになることができました。
かつて自分自身がお世話になったささやかな親切を、私もその人たちの代わりに、自分と同じように今、目の前で悩んでいる人たちへ同じようにすることで、恩返しとしようと考えています。
人は自分がされた理不尽なことでの恨みや仕返しを抱えていては、決して幸せにはなれません。
このことに私は子供の頃、すでに気づいてはいました。
でも、ほとんどの方はこうしたことに気づきません。
なぜなら、そうした困った経験がまずないからです。
「獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす」
追い詰められてこそ這い上がってきて、初めて気づくことがある。
このことを知らない方が多い。
それは、憲法にある最低限度の生活にあまりにも頼りすぎてしまったからだと、私には思えます。
恵まれすぎて気がついていない・・・。
こうお話ししていたら、「サマーキャンドル」という杏里さんの曲の歌詞が頭の中に浮かびました。。。
「あまりにもそばにいるからこそ、いつも見えていない愛の存在」のことを歌ったものですが、同じようなことがたくさんあるということに、私は気づかされたのです。
以上、『幸せのかたち~気づくための機会としての逆境~(2)』について、お話ししました。
またそれでは明日。。。🙋
(続く)