これは最初からペプシコーラの工場であったのではないが、充填していた時期もあったので番外編とする。
 
 大阪府高槻市の国道沿いにあるチェリオコーポレーション高槻工場。この工場は1963年に操業を開始したセブンアップ飲料(関西)の工場がその起源である。操業から10年はセブンアップとチェリオの充填をしていたが、1973年からは南日本酪農協同の愛のスコールの充填も開始。そして1976年秋以降はペプシ製品の充填も始めた。
 
 元の関西地方のフランチャイズであった伊藤忠飲料の電撃解散によってその白羽の矢が立ったのは、砂糖業界の怪物と呼ばれた菅貞人であった。その経緯については既に別トピックで触れているが、ペプシの幹部が直々に頭を下げ、社員全員からの反対を押し切りペプシ製品の製造販売に乗り出した。
 
 1977年から販売を開始したペプシ300は巨人軍の王貞治選手の「50円で1.5倍」のコピーで大ヒットとなり(阪神ファンの多い関西でこのキャンペーンをやっていたかは不明)、結果的に菅貞人の決断は正しかったと思われる。1983年頃になると、セブンアップ飲料(関西)はセブンアップ、チェリオに加えスイートキッスという看板商品もでき、ペプシコーラ・果汁入りミリンダ、そしてスコールとラインナップも充実し順調に業績を伸ばしていく。これに合わせ高槻工場に最新鋭のワンウェイボトルラインを設置し、スイートキッス300mlボトルやペプシコーラ1.25リットルPETを生産開始。
 
 1986年には国産初となるペプシコーラ350ml缶を発売。これも高槻工場で生産された。当時は自社の大ヒット商品のセーフガードの生産にも追われ、高槻工場は連日フル稼働の忙しさだったという。しかし、セブンアップの日本国内での販売権が1986年にフィリップモリスからペプシコへ移管された辺りから徐々に暗雲が立ち込める。
 
 1987年になると社名をセブンアップ飲料(関西)からチェリオ関西に変更。セブンアップからチェリオへの比重が一気に高まると、ペプシの扱いも変わる。元々の経緯からペプシコは菅貞人に頭が上がらなく、その販売方法も黙認の形が続いていた。しかし、やはり菅がオーナーである中部ペプシコーラボトリング同様にこのまま放置することを良しとしないペプシコが動き始めた。その結果がフランチャイズ契約の終了である。「揉めに揉めた結果」という記録があるぐらい、結構大事なことであったようだ。そして、セブンアップ飲料(関西)から続いていた高槻工場でのペプシ製品製造は幕を引くこととなった。
 
 ※チェリオコーポレーションのサイトでは1987年3月にフランチャイズ終了となっているが、1990年の誤りと思われる。1989年秋にチェリオ関西名義で製造されたペプシコーラ350ml缶も存在する。