一枚のはがき | アイビーの独り言

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加藤りつこのブログ



浅生さん最期の年賀状となりました。昨年お正月に受け取って3ヶ月後に亡くなっていたなんて・・・






浅生時江さん・・・

どうしたの?

何があったの?


毎年すてきな絵手紙で近況をお知らせしてくださっていたあなたが・・・


「昨年4月18日に、妻 時江が永眠いたしましたので、新年のご挨拶を失礼させていただきました・・・・・」


1月8日の午後4時頃、何気なく開けたポストの中に入っていた郵便物の中に、一際白く目立つはがきが目に留まりました。

「えっ??」 

「妻 時江が・・・」

私ははがきを持つ手が震え絶句してしまいました。




時江さんの目に留まった新聞記事。これがご縁で長年命日にお花を送り続けてくださいました。






浅生時江さんは、1995(平成7)年2月1日付の読売新聞朝刊で阪神淡路大震災の犠牲者となった、神戸大学生の追悼特集を読まれ、私の息子・貴光の記事に心を留めてくださったお一人でした。

茨城県牛久市にお住まいの女性で、全く面識もない方でした。

その年のお盆に電報とお花が届きました。

「あの若さでお母さまを想う気持ちをストレートにお伝えになった貴光さんのお人柄に感動すると同時に、何故あなたのような若者が亡くなられたのか・・・無念でたまりません。一度もお会いしたこともない私故、差し出がましいことと躊躇いたしましたが、どうそお赦しいただきますよう。貴光さんあなたのこと忘れません」。



生きているから影は映るのです。この美しい影こそ命ある証です。 (アオサギ) 内藤達郎・撮影






生きていれば、自分で出会いを紡ぐことができますが、亡くなってしまったら二度と出会いの場は持てません。21歳で逝った息子が生きていれば、これから年を重ねる度にどれ程の人々と出会えたことか・・・

そう思うと可哀想で無念が募りました。そんな私の所に突然、見ず知らずの方から、「加藤貴光様」と息子宛にお花が届いたのですから、生きる気力も立ち上がる気力もなく、ただ無念で憔悴していた私にはカンフル剤のような贈りものでした。

また息子の死を認めていない私には 「お供え」 という言葉が辛くて、いただいたものは全て、「贈りもの」 と受け止めていましたが、時江さんは 「お供え」 という言葉を最初から用いないで送ってくださっていました。

それもまた、感激の一つとして心に強く刻まれ、私の心を温めてくださいました。 ありがたくてありがたくて、心を込めてお礼のお手紙を書いたり電話でお話もしました。


毎年1月17日には 「貴光」 宛てでお花とその時々の想いを綴った電報を送ってくださいました。

毎年欠かさず送ってくださるお花を見る度、逆の立場で私にできただろうかと思うと感謝してもしきれない思いでした。



大切なあなたがもう此処にいないなんて・・・   (スイセン)      内藤達郎・撮影






その大切な方が、もうこの世にいらっしゃらないなんて・・・

昨年4月18日に亡くなっていたなんて・・・


昨年の年賀状が最期になってしまいました。ご主人様にお電話差し上げ年賀状を描かれた時の様子をお聞きしました。

病状も悪化して辛い時期だったそうですが、一生懸命描かれ元気になることを目標にして頑張っていらしたそうです。

そんなこととも知らず、力強いタッチで描かれた絵を見て、嬉しく思っていた私でした。年賀状を受け取って3ヶ月後に亡くなったなんて・・・

言葉もありません。ただただ涙にくれています。



今年のロウバイをあなたは見ることができなかった   (ロウバイ)    内藤達郎・撮影






時江さん、お辛い日々だったのですね。

でもあなたの魂はこの広い宇宙の中で崇高な輝きを放っています。

私も貴光もあなたのその崇高な魂にどれ程救われたことか・・・

決して忘れません。忘れられません。

浅生時江さん。

温かい愛で私の冷え切った心を包んでいただいたから今、私はこうして生かされているのです。

ありがとうございました。ありがとう・・・

悲しい知らせが届いた日は一日中雨でした。

あなたと私の涙雨だったのでしょうか。


あなたの笑顔に会いたい・・・  会いに行きます。必ず。