風がくれた贈りもの・・・・・① | アイビーの独り言

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加藤りつこのブログ


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 Rieさんからの贈りもの『母子像』



子供を亡くした母親には、この苦しみが『解消』する日はありません。その子がここに戻ってこない限り・・・・・。


そんな特異な精神状態に陥った私に癒しとなるものは殆どありませんでした。

唯一救いだったのは、息子の生き方に共感してくださった方々が、ご自身の人生において『気づきの一瞬を得た』と言ってくださった時でした。息子の21年が灰と化したことの空虚さ無念さに悶絶しながらも、せめて彼の生き方がどなたかのお役に立てば、一生懸命生きた彼の努力も報われるような気がしたからです。



『青天の霹靂』という言葉では表せきれない衝撃・・・・・。

突然目の前に繰り広げられた地獄絵のような光景・・・・・。


現実に起こったことが受け入れられなくて茫然自失のまま長い時を漂流してきた私です。



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    祈りのキャンドル1.17

        photo by sakikawa



地震発生の当日は広島から神戸方面への交通網はすべて遮断され、電話も通じず息子の安否は分からないままでしたが、夜になってNHKテレビのテロップでの報道で、翌朝広島から伊丹まで飛行機の臨時便が出ることを知り、18日に現地入りを果たすことができました。・・・・・・が、伊丹空港に降り立った私は愕然とし不安が募り始めました。電車の大きな車体が脱線し高架下に向けて落ちかかっていたり、傾いた民家や淀んだ空気の異常な光景が目の前に広がっていたのです。

人々は皆一駅歩いて次の駅から発車する電車に乗り、それぞれの目的地へ向かいました。阪急西宮北口駅で神戸線に乗り換えようとしたら、線路の崩壊で不通になっていて、やむなく次の駅夙川(しゅくがわ)まで歩きました。


そこは伊丹周辺以上に被害が大きく、壊滅状態でした。二階建ての家の屋根が私の目線に見えたり、電柱が倒れ電線が歩いている私の首の辺りにぶら下がっているのです。空気は黄ばみ淀んでいました。アスファルトの道路は裂け、30㎝位の段差ができていたり、壊れたアスファルトの欠片が石ころのように随所に転がっていました。


街は妙に閑かでした。


リュックサックを背負った人々が無言で歩いていました。


戦争映画のワンシーンのような異様な光景の中に現実の世界を生きている私がいました。


その時私はまだ息子の死を知らずリュックサックの中に彼の着替えや食べ物などを詰め黙々と歩いていたのです。



広島の自宅を出て7時間あまりかかり、やっと夙川のマンションに辿り着いたのは18日の午後3時頃だったように記憶しています。


息子は絶対生きていると信じていたから長い距離も歩けました。

街の様子もはっきり見えました。



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    『心友』からの贈りもの



しかし・・・・・辿り着いた途端救助に関わっておられた方々に肩を支えられ『気をお確かに・・・』と声をかけていただいた時、私は非常事態を察し膝が崩れ落ちるように力が抜けていったのを覚えています。

それから先は断片的にしか記憶がなくて、5階建てのマンションがどのように崩れていたのか、周辺の風景がどのように変わってしまっていたのか分かりません。

後に新聞やテレビで報道された写真によって認識した記憶でしかありません。


大阪の茨木市から親戚の者が駆けつけてくれていましたが、彼女の言葉によれば、息子の友人とそのお母様が、ずっと付き添っていてくださったそうですが、、放心状態の私の心には入らなかったのでしょう。


息子の友人のお母様と連絡が取れたのは数ヶ月後でした。



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    姪たちからの贈りもの



『娘が信頼していた貴光さんのことをもっと知りたいのです。子供たちが親友だったように私たちも親友になれませんか?』


この一通の手紙に心打たれた私は、彼女に手紙を書きつながったのです。

ある時は電話で、ある時はFAXで・・・・・


そして今日まで常に心を寄り添って共に生きていただきました。


  次回へ続く・・・