つづき




ノリさんは、そんな夢をみるボクサーたちを長い間、見守り続けてきた人だ。
ロサンゼルスはダウンタウンの北のはずれにあるトルトウキョウと呼ばれる街で、Anzen(安全) Hardwareという金物屋を営んでいる。台所道具から工具、園芸用品など日本の伝統的で便利な道具類が所せましと並んだ店で、日本人ではないお客に、道具の使い方から手入れの方法まで丁寧に英語で説明する優しい店主、が普段の顔だ。が、ボクシングの仕事人としては、知られたところでは、輪島功一から王座を奪ったショットガン・アルバラード、ルディとヘナロのエルナンデス兄弟、畑山隆則と引き分けたサウル・デュランといった選手のマネージャーであり、トレーニングや試合をしようと日本からやってくるボクサーの宿の手配やマッチメイクにも一肌ぬいできた。
60年代から70年代にかけては、日本人が世界の一級品をやっつける快感を何度も味わった。1964 年4月、オリンピック・オーデトリアムで海老原博幸がエフレン・“アラクラン”・トーレスを僅差2-1で破った時は、客が大暴れ(歴史的会場が15万ドルもの損害を被った)する中、命からがら避難した。68年に西城正三がオリンピック・オーデトリアムでの4連戦を経て同年9月にメモリアル・コロシアムでラウル・ロハスを大差判定で返り討ちにし、日本人初となる海外での世界王座奪取に成功した時もコーナーにいた。69年6月に花形進が“アラクラン”・トーレスに判定勝ちを収める番狂わせを起こし、その5年後にシゲ福山がのちの名王者ダニー・ロペスを棄権に追いやる金星を挙げ、オリンピックの常連客たちからドル札が舞った様子を、胸のすく思いで見ていたという。
「ボクシングはね、いいなあ、って思うんですよ、やっぱり。石田の試合で、コーナー下で日の丸を振っているところがテレビにも流れたみたいでね、日本の古い友人たちから“おまえまだボクシングやってたのか”って久しぶりに電話がかかってきたりしましたよ」
70歳を過ぎ、好々爺然の“Anzenのノリさん”のボクシング熱が、新しいヒーローの登場で再燃しつつある。
「もう一度、選手を育てたいな、ってね、思うんですよ」

120年以上も前、新天地を求めて移住してきた日本人が根を張り、戦争の激動期を乗り越えて夢を追いかけてきた場所であるリトルトウキョウは、裕福になった日系人は郊外へと散ったが、かつては北米最大の日本人街で、戦争前後は3万人もの人が暮らしたそうだ。今、巨大なバスや車が渇いたほこりを巻き上げる一番ストリートは、その社交の中心だったという。通りの北側に残る間口も高さもまちまちの素っ気ない造りのビルは長屋のように連なり、時代においてけぼりにされたようなたたずまいながら、長い歴史の証人として毅然とそこに立っている。ノリさんのお店はこの長屋の一角にあり、そのため日本から来るボクサーの多くも、この近辺の安宿に滞在してきた。

そんな中の一つ、ダイマルホテルが、石田の定宿だ。
私がしばらく働いていた日本人がほとんどこないラーメン店『ミスターラーメン』の二階にあって、一度入らせてもらったことがあるのだが、汚れてくもったガラスの扉をあけて細い階段を上がったところが“ロビー”。ちょっと愛想のよくない中国人のおばさんが管理人のこのホテルは、トイレ、バスは共同。数年前に改装をして壁などは少し明るくなっているが、天井は低めで光の入らない部屋もあって、ここに寝泊まりしながら日々トレーニングに通うボクサーの姿が浮かび上がってくる気がした。石田は奮発して窓に面した「インターネットの使える部屋」に暮らしていて、すっかり仲良しになった管理人のおばさんがゴハンを作ってくれることもあるという。が、実はもうちょっと、物騒な地域に近い3番ストリートにあるチャットウッドという宿に移ろうかとも考えているらしい。
「部屋代が安いし、メシも食い放題なんでね…(笑)」

石田を話を聞いていると、もっと器用に、うまく世の中を渡っていってもよさそうな気がするのである。
186㎝の長身で、見ての通りの“イケメン”で、元トップアマなのだ。が、自信満々に育ってきたのかと思えば、「めちゃめちゃ弱気でマイナス思考」。
幼少期から格闘技に親しみ大阪・興国高校時代に選抜大会優勝、近畿大学時代に国体準優勝を果たしている。にも拘わらず、卒業後は一度、グローブを吊るした。児童養護施設の指導員として資格取得を目指して勉強しながら働いていた時、高校でボクシングをしているという男子生徒に練習をつけることになったことがきっかけで、社会人選手権(1998年)に出場。勉強と仕事でほとんど練習できないままでリングに上がったが、結果は優勝。しかもかの名選手、今岡紀行を破ってのタイトルである。翌年の全日本選手権では3位。現東洋太平洋ミドル級王者・佐藤幸治の兄・賢治に敗れた。2ラウンドの終わりにボディブローを効かされて判定負け。
「自分に負けちゃうんですよ…プロの5敗もぜんぶ、自分に負けたと思てます。とにかくね、いつも自信がないんです。アマの頃はKO・RSCが多かったけど、プロになったら試合が長いから、スタミナが心配で。だから、パンチ効いたと思ってもラッシュできないんですよ、スタミナが心配やから(苦笑)。めちゃくちゃ怖がりでね…。あ、っでも、だからやたらガードするんですよ。それがよかったんかもしれませんよね、長持ちしてるわけやから」
2007年10月に世界ランクを狙ってハビエル・ママニと戦う前、知人に岡辺トレーナーを紹介され、初めて師事を仰ぐべく渡米した時、私の記憶が正しければ、キャンプ初日、石田はこの目当てのトレーナーと対面できなかった。乗ったことのない路線バスを乗り継いでジムへ行こうと試みたものの、複雑な時刻表を理解できず、なんとか目的地にたどりついた時には練習が終わっていた…そんな苦労話を聞いたように思う。

しかし、あちこち頭をぶつけたり壁を乗り越えたりしてきた時間や、逆境で得た人の縁が、弱気で怖がりを自認する男を強くしていったに違いない。
「6戦目で東洋を獲った時、けっこうちょろいかな、と思ってたんですよ。こんなに苦労するとはね……。とんでもなかったっですね(苦笑)。カークランド戦は、実は反省だらけで。ばたばたしすぎた。もうちょっと落ち着いていけたらよかった。でも…挫折を味わって、あきらめんと頑張れたんは、誇れるところです。いろんな人に助けてもらってここまできたから。自分一人やったら、とうにやめてたと思います。ノリさんが涙流して喜んでくれたの、ほんまに嬉しかったですね…。西城さんがロスで世界獲った時の話とかしてくれました」

 ラスベガスでの大番狂わせは、一時の喜びや興奮はもたらしたが、実は石田の心を満たすものではないという。
「勝ちましたよ、番狂わせしましたよ、ラスベガスで。でも、まだ物足りない。アメリカンドリームは、これからです。まだまだ全然、満足してないんです。“暫定”っていう言葉、いらないし。いつも“暫定”って言われるの、すごい悔しいんですよ。……なんでですかね……小さい頃、なかなか父親に認めてもらえんかったことが原因なんですかね…人に認めてもらいたいっていう気持ちが強いんですよ」

 その、満たされない気持ちや飢える心がある限り、前進できる。そして重ねた苦労の厚みとともに、アメリカで夢を追うための力になるのだろう。
 8月18日に36歳になった石田順裕。彼のボクサー人生は、これからが佳境なのかもしれない。