もうずいぶん前なんですが
日本画の奥村土牛の作品展を観てきました。





サブタイトルが
画業ひとすじ100年のあゆみ
だけあって、101歳で亡くなるまで
描き続けた画家です。







透明感のある作品が多いなかで
(独特の手法で色がつけられています)
この「鳴門」は力強く圧巻でした。

チラシを写しても迫力が出ないのが
残念です。



展示室に入るとまず最初に
飛び込んでくるのが
チケットにも印刷されている『醍醐』。



そしてその次が
土牛の師である前田青邨の描いた
『土牛君の像』

自分の師が
自分をモデルに描いたのです。

ということは制作の一部始終を
目の当たりにしたわけですね。



この作品の横に土牛の言葉が
展示されていました。


先生のご苦労が分かりました。
先生の心を学ばなければならない。



ほほう、
やるじゃないか土牛くん。



もうほんと誰目線だか
分かんないんだけどね(笑)


でもね

ほんとそう!
ほんとそう!
ほんとそう!


ほんとそうだよね!



先生の作品を真似したところで
先生のような作品は描けないんだもの。

先生が目指しているところを見てこそ
作品に宿る意思や意図が汲み取れる、
と思うのです。



例えば、
イチロー選手に憧れた野球少年が
イチロー選手の生活をなぞり
朝6時に起床、カレーを食べ、
打席に立って左手で肩に触れたところで
イチロー選手のようにはなれないように

なぜそうするのか
何を見据えてそうするのか
それが分からないままでは
到達できないような気がしています。

(かといって到達できなくてもいいとも思っています)


念のために書きますが
真似が悪いだとか
とはいっても実力の差でしょ?
みたいな話でもありません。



話を土牛くんに戻しましょう。
(わたしは誰なんだ)




他にも土牛の言葉が展示されていました。




色は見たままを描くのではなく
「本当の色の気持ち」をとらえ
「精神を意味したもの」でなければならない



生物だったり静物だったり
風景などから受ける気持ちではなく
「本当の色の気持ち」なんだって。


どうしましょう。
この言葉に値する素敵な言葉が
見つからないわ。



大きなショックで展示室を後にし
土牛の作品をモチーフにした
和菓子をいただきます。






白椿。



元ネタ。(たぶん)



中は若々しい緑色でした。






ここまで書いといてなんですが
実は奥村土牛の作品は
そんなに好きではありません。


とっても好きな
菱田春草のことを綴った
こちらもどうぞ。
『余白と与作の重要性』