私が重厚なドアを開け部屋に入ると、父は壁一面を占める巨大な姿見の前で、片手を前に上げポーズを取っていた。
私が父の背後に立っても、父はポーズをとることをやめようとはしなかった。やや角度を変えながら、やせぎすの体に餓鬼のように腹のだけがぽっこりと出た短躯にうっとりと見入っている。父はもう老人といっていい年齢だ。しかし、父の目に映る自分の姿は、いくつになっても壮年のたくましく精力的な姿のままなのであろう。この国のいたるところに掲げられた父を描いた絵画のように。
私は鏡の中の父を見つめながら言った。
「今度のオリンピックで、わが国から84名の選手が出ることが決まったよ。いつもは30名くらいだから約3倍近い人数だ。そのうち例の計画によって生まれた選手で今回出場するのは52名だ」
「どうだ。メダルの方は」父は私のほうを振り向いて尋ねた。
「あまり怪しまれないように、オリンピックの選考会では力をセーブしていたからね。本気になればワールドレコードを大幅に更新できる選手が大勢いるよ」
私がそういうと父は満足そうにうなずいた。
「あの計画を成功させることは、わが国家の長年の悲願だ」
父はそういうとまた巨大な鏡のほうへ向き直った。しかし、その目は鏡に映った己の姿のはるか遠くを見るようだった。
あの計画・・・超人計画と名づけられたそれは、いわば優生思想を遺伝子操作によって実現しようとする計画である。そして、まずはオリンピックにおいてわが民族の優秀さは示され、世界に向けて発信されることとなる。
スポーツ界では遺伝子ドーピングの危険性が指摘されて久しい。しかし、遺伝子ドーピングの検知は、薬物やホルモンによるドーピングの検知と比べて非常に難しい。
現在のところ遺伝子ドーピングを検知するには、筋肉など生体の細胞を取り出して検知するしかないが、それが人工的に操作されたものであるか、または生まれつきのものであるかを検知することはほとんど不可能だ。
遺伝子ドーピングには大きく分けて二つの方法がある。遺伝子操作されたウィルスを被験者の体内に取り入れる方法と、受精卵のうちにその遺伝子を操作し、ある身体能力を高めた赤ん坊を産ませる方法だ。
前者の方法では確実に効果を得ることは難しい。だが、後者の方法は他の国のスポーツ選手にとっては非現実的な方法といっていいだろう。しかし、わが国では先見の明を持って約二十年前からこの計画に着手していた。そして、このたびやっと念願かなって、この計画によって生まれた超人たちをオリンピックに送りだすこととなった。
発端となったのはわが国で、超人的な身体能力を持つ赤ん坊が発見されたことだ。
その赤ん坊は男の子で、わが国の僻地にある貧しい農家で産まれた。我々がその赤ん坊の存在を知ったとき、すでに赤ん坊が産まれた村では知らぬものがいないほどの有名人であった。
赤ん坊のうわさは俄かには信じがたいものであった。
いわく『三ヶ月の早産であったにもかかわらず、産まれた次の日に歩くことができ、一ヵ月後には走り回ることができた』『怪力で生後三ヶ月から鍬を持ち、両親の畑仕事を手伝えた』『俊敏で畑に現れた野犬を棒切れひとつで追い払った』などだ。
しかしうわさは誇張ではなかった。野生の猫。それが、わたしがその赤ん坊を始めてみたときの印象だった。
われわれが村を訪ねたとき、赤ん坊はまだ一歳になったばかりだった。身長こそ80センチそこそこであったが、見事な筋肉質の体をして、しっかりした足取りで走り回っていた。
われわれはあるルートを通じてその赤ん坊の遺伝子の解析を依頼し、その赤ん坊の超人的な性質が、筋肉の成長を抑制するミオスタチンというたんぱく質が生成されないという、遺伝子の異常によることを突き止めた。そして、この遺伝変異を持つ人間は筋肉量が常人の二倍まで達することがわかった。
赤ん坊は超人的な筋力を持つと同時に、代謝のスピードも常人とかけ離れており、体脂肪がほとんど蓄積されない体質であった。赤ん坊はその代謝のため、一人前の大人並みのカロリーを摂取しなければならず、貧しい農夫である両親の家計を圧迫していた。
そのせいか、政府で赤ん坊を引き取りたい旨を伝えても、両親はさほど躊躇はしなかった。この時点で計画はトップシークレットの扱いとなっていたため、赤ん坊は死亡したものとして、両親からにわずかの金と引き換えにわれわれに引き渡された。
「長かった・・・」感慨深げに父が言った。
父の言うとおり計画は途方もなく困難なものだった。この大掛かりな計画を国際社会に悟られぬように実行するのは並大抵のことではなかった。わが国の核開発疑惑などは、この計画から国際社会の目をそらさせるためのミスデレクション的な役割を担っていたのだ。
通常の体外受精の成功率からして20パーセント以下であった。ましてや遺伝子操作された受精卵が着床し、健康な、そして目的どおりの赤ん坊が産まれる確率はさらに低下する。
遺伝子操作された超人の選手団を何十人と送り出すために、何千個という卵子と何百という胎児たちが消費されてきた途方もない計画なのだ。
全国から身体能力の優れた人民が集められた。もともと優生学的に優れた遺伝子を、遺伝子操作により改造するためだ。そして集められた女性は、月に一度卵子を提供させられた。この卵子を優れた遺伝子を持つ精子と体外受精させた後、受精卵をミオスタチンが正常に生成されないように遺伝子操作し、代理母の子宮に着床させる。代理母は健康な女性ならば誰でもよかった。
遺伝子操作して産まれた赤ん坊には奇形児など障害を持つものも多かった。障害を持つものはそれがわかった段階で、胎児のうちから間引かれていった。
そして目的どおり産まれた超人的な赤ん坊は、その適正を調べられた後、幼いころから徹底的な英才教育が施された。
彼らの身体能力は常人とはかけ離れたものだった。たとえば世界のトップアスリートたちがコンマ一秒、二秒を争っている競技で、トレーニングにおいて10パーセントから20パーセント世界記録を短縮している。
たとえば、陸上競技7種目に出場するある選手がいる。現在、彼の公式な大会における記録は、100メートル走で10秒フッラトという平凡なものだ。しかし、それはもちろんオリンピック前に無用な注目を避けるために力をセーブしているからに過ぎない。オリンピックでは彼の持つ真の自己記録7秒86をさらに更新することとなるだろう。
彼らがこのオリンピックの表彰台を独占するのは間違いがなかった。このオリンピックが終了した後は彼ら同士が夫婦となり、数多くの子孫を残していく。そのときにはもはや受精卵を遺伝子操作する必要はない。ミオスタチンが正常に生成されないように遺伝子を持つ彼ら同士が産んだ子供たちは、その両親の遺伝子の性質をそのまま引き継ぐことになるからだ。
彼らは国家の政策として選択的に増え続け、やがて優れた兵士として国家のために活躍してくれることになるだろう。
スポーツだけではない、数年前から、遺伝子操作により人民の知能を飛躍的に高めようとする計画も実行されている。個人主義と似非ヒューマニズムが横行する民主国家では、国家としてこのような政策を行うことは出来ない。
オリンピックを制することは、わが国家の壮大な計画の手始めに過ぎない。人類を次のステージに進化させ、やがて世界の宗主となるのは、偉大なる父が治めるわが国家・・
「あの赤ん坊はどうした」物思いに耽っていた私に父が訊いた。
「彼は今回のオリンピックではコーチとして選手団に同行します」私は父に答えた。
あの赤ん坊とはもちろん最初にわれわれが発見したあの超人的赤ん坊のことだ。父はついに彼の名前を覚えることはなかった。彼は現在24歳の青年に成長している。成長してからも彼の超人的身体能力は変わることなく、実を言うと今回の選手団全員の比べても一番の身体能力を誇っている。しかし彼はある理由により今回のオリンピックの選手となることは出来ない。彼だけが遺伝子操作によらず、産まれながらのナチュラルな資質を持っているにかかわらずだ。
ある理由、それは父がわが国の人民の中で一番優れた存在であらねばならぬことだ。そのために・・・
そのとき、私は父の部屋を訪れた理由を思い出した。私としたことがつい感傷的になり考え込んでしまっていた。私は父と共にオリンピック選手団の壮行会の会場に向かうために迎えに来たのだ。
私はそれを告げ、父と共に会場に向けて、歩き出した。
今度のオリンピックはわが国家としてだけでなく、われわれ親子にとっても特別なものになる。父は政治的な理由から行くことは出来ないが、今回、私は応援のため選手団に同行する。私がオリンピックの応援になど行くのは初めてのことだ。だが今回は行かねばならない。それは、わが国の選手団が大活躍するはずだからだという理由からだけではない・・・
私は、私の弟たちと妹たちの元へ向かう足を速めた。