六本木の俳優座スタジオでイプセンの「野がも」を観た。

 

2025年4月末で劇場の閉館が決まっているが、メイン劇場があるビルの5階にある小劇場スペース俳優座スタジオはこの日も満杯。

入場するためにエレベーターを待っていた際に案内してくれた劇場関係者が「おかげさまで完売なんですよ。2週間上演期間があるのですが、早くから売り切れてしまって。。」と嬉しそうに、そしてちょっぴりもどかしそうに話してくれた。

 

*****演劇サイト より ******

 

豪商ヴェルレ(加藤佳男)とエグダル(塩山誠司)はかつて工場の共同経営者だったが、ある事件によりエグダルは事件の罪を一手に被り投獄されてしまう。エグダル家は没落し、貧困生活を強いられることとなった。
その事件から数年が経ったある日、久しぶりにヴェルレの息子グレーゲルス(志村史人)が、エグダルの息子ヤルマール(斎藤淳)と再会する。ヤルマールは、結婚し子を持ち、ささやかながら幸せな家庭生活を送っていた。
グレーゲルスはヤルマールの結婚相手が、ヴェレル家の元家政婦のギーナ(清水直子)であることを知る。クレーゲルスの中にある疑惑が生じる。やがてグレーゲルスは疑惑を暴き、真実をヤルマールに伝えるが…。

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演出はこのところ劇団内外で広く活躍している俳優座の眞鍋卓嗣、エクダル、ヤルマール一家が暮らす森の山小屋の居間を再現し、その背後に野鴨や鶏、兎などがいる飼育小屋があることを示唆した美術を杉山至が、そして役者は俳優座の名優たちで固めらている。

 

イプセンと言えば「人形の家」「ヘッダ・ガーブレル」「民衆の敵」「ペール・ギュント」など(数ヶ月前には「ロスメルスホルム」の傑作舞台が上演されていたが)が有名で日本でも頻繁に上演されているが、この「野鴨(翻訳本などはこの表記になっている)」に関しては後期の傑作との呼び声もある中であまり上演されることがない。

 

 

日本での上演では、2007年にタニノクロウの演出で小劇場の空間にリアルな薄暗い森を再現し、石田えり(ギーナ)や手塚とおる(ヤルマール)が大きな権力に対した際に見えてしまう人間の弱さを描き出した「野鴨」が印象に残っている。

2022年には世田谷パブリックシアターで上村聡史演出、藤ヶ谷太輔主演(グレーゲルス)の舞台が上演されているが、筆者はこちらは見逃している。

 

「人形の家」や「ヘッダ・ガーブレル」に比べるとこの「野鴨」が複雑で焦点(演出の的)を絞りにくいというのがその上演回数の少ない理由の一つなのかもしれない。

 

そこで今回の舞台はと言うと、タニノクロウ版とは一線を画しているのだが、こちらはこちらで眞鍋演出の意図がはっきりとしていて新たな眼で「野がも」を発見したように思った。

 

眞鍋版の「野がも」ではパンフレットの冒頭に「人間てやつは、ほとんどだれもかれも病気です、情けないことにね」と医者のレリング(八柳豪)の言葉をこの劇の謎を解く鍵として掲げている。

 

そう、この劇においてイプセンは人間の矛盾だらけの営み、倫理的理想の限界、生きていかなければならない人間たちの不条理(翻訳者の毛利三彌氏は「野がも」のチェーホフの「かもめ」への影響を指摘している)を悲しいかな(情けないかな)それが人間の人生だ、と呆れながらも愛おしく描いているのかもしれない。

 

しばしチェーホフの劇が悲喜劇と言われるように、この「野がも」も少女の自殺という悲しいエンディングであるものの、そこには大人たちの喜劇ともとれる愚かさが随所に見て取れる。そしてその点をはっきりと示したのがこの眞鍋演出と言えるだろう。

 

まずは親友である男二人、グレーゲルスとヤルマール。。。お互いのことを思いやって良い人なのはわかるが、どうにもトンチンカンで「あんたたちがもう少ししっかりしていれば」と言いたくなる。得にヤルマールのダメンズぶり、例えば意を決して家を出ていくと言いながら荷造りもできず妻に頼ってしまったり、一生をかけてやるつもりだと豪語していた発明も実のところ真剣には向き合っていないようだし、、その空回りぶりがなんともトホホ。。で劇場でも笑いを呼んでいた。グレーゲルスの理想論も机上の空論に過ぎず、朝日新聞の劇評で徳永京子さんが彼の思想の源を亡き母の影響で、つまり裕福な家の息子のマザコンが原因で非現実だと一蹴していたが、そういうことなのだろう。

さらに言えば、反対に女性たちは生きる術に長けていて抜かりなく、言うまでもなくヴェレルは狡猾で厚顔、エクダルは過去に逃避したまま弱い動物たちを傷つけ、下宿人たちは酒に溺れ周りの人を非難している。

 

そんな中、人生を始めたばかりのヤルマールの娘ヘドヴィグ(釜木美緒)が早々とその人生に終止符をうってしまう。—これに関しても辛辣な皮肉ととれなくもない。

 

そんなダメダメな人たちばかりがお粗末なことをしでかす劇なのだが、反面彼らはとても人間臭くてそれぞれに自分に忠実で、そんな人間が営む人生なんてこんなものだ、と我が身を振り返り思わされる。

 

そうつまるところ、「人間てやつは、ほとんどだれもかれも病気です、情けないことにね」と気付かされる「野がも」だった。